吉田定房卿について。父・吉田経長は亀山上皇、後宇多上皇に仕え、定房も早くから大覚寺統のために働いた。後醍醐天皇が即位すると重鎮のひとりとして活躍し、内大臣に昇進。北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。後宇多法皇が院生を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れたのも、正中の変の後、後醍醐帝のために鎌倉への陳弁につとめたのも吉田定房卿じゃよ。
王者は仁を以て暴に勝つ事。至人の道、ただ仁を先となす。仁の為鉢、殺さざるを基となす。
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。
兵革を用いずして、暫く時運を俟つ。是れ大義ならんのみ。
天皇のあるべき姿を説き、鎌倉の実力を冷静に分析した、至極まっとうな見解じゃ。
それでも、日野俊基や文観に乗せられ、すっかり舞い上がってしまっていた後醍醐帝は定房の意見に耳を貸さない。このころ奥州で安藤氏が乱を起こすなど、幕政が揺らいでいたのも帝の自信につながっていたのかもしれない。西国でも悪党が跋扈していたしのう。
やむなく定房卿は意を決して、元弘元年(1331)、討幕計画を鎌倉に報告する。日野俊基を主謀者とすることで朝廷を衛ろうとしたのじゃろう。じゃが、これを知った後醍醐帝は「動座じゃ!」と御所を抜け出して笠置山に挙兵。かくして元弘の乱がはじまり、全国的に内乱が広がっていくのじゃ。
もっとも、こんなことがあっても、後醍醐帝の定房への信頼は厚かったようじゃ。のちの建武政権でも吉田定房卿は重用されておるし、定房卿もまた、南北朝の騒乱では最後まで帝と行動を共にしている。
延元3年/暦応元年(1338)1月23日、定房は吉野でその生涯を閉じる。享年65。その2ヶ月後、もう一人の側近の坊門清忠が没すると、後醍醐帝はこんな歌を詠んでいる。
事問はん 人さえまれになりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる
相談相手の老臣を失くした寂しさ、悲しみ。諫言してくれる部下を持つこと、そうした部下の意見をよく聞くこと。大事なことじゃのう。