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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

吉田定房〜後醍醐天皇の忠臣、後の三房、南朝の製造人

吉田定房卿について。父・吉田経長は亀山上皇、後宇多上皇に仕え、定房も早くから大覚寺統のために働いた。後醍醐天皇が即位すると重鎮のひとりとして活躍し、内大臣に昇進。北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。後宇多法皇が院生を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れたのも、正中の変の後、後醍醐帝のために鎌倉への陳弁につとめたのも吉田定房卿じゃよ。

吉田定房

吉田定房

後醍醐天皇の乳父として

吉田定房卿は、藤原北家勧修寺流吉田家、権大納言・吉田経長の長男。官位は従一位・内大臣である。父・経長は大覚寺統に仕え、亀山上皇・後宇多上皇の院政において院執権を務め、権大納言に昇っている。定房もまた早くから亀山上皇に仕えてその信任を得た。

正安3年(1301年)、後二条天皇が即位すると皇位は大覚寺統に戻り、定房卿は院評定衆、伝奏として重用される。また、後宇多上皇の使いとして鎌倉へ来たこともある。

また、後醍醐天皇(尊治親王)にとっては乳父であり、その側近として、北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。

後醍醐天皇への間奏

定房卿は、どうやら穏健な常識人だったらしい。「吉田定房奏状」とよばれる10カ条の意見書を奉呈するなど、討幕の準備をすすめる後醍醐天皇をしばしば諫めている。

王者は仁を以て暴に勝つ事。至人の道、ただ仁を先となす。仁の為鉢、殺さざるを基となす。 戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。兵革を用いずして、暫く時運を俟つ。是れ大義ならんのみ。

天皇のあるべき姿を説き、鎌倉の実力を冷静に分析した、至極まっとうな見解じゃ。

それでも、日野俊基や文観に乗せられ、すっかり舞い上がってしまっていた後醍醐帝は定房の意見に耳を貸さない。このころ奥州で安藤氏が乱を起こすなど、幕政が揺らいでいたのも帝の自信につながっていたのかもしれない。西国でも悪党が跋扈していたしのう。

やむなく定房卿は意を決して、元弘元年(1331)、討幕計画を鎌倉に報告する。日野俊基を主謀者とすることで朝廷を護ろうとしたのじゃろう。

じゃが、これを知った後醍醐帝は「動座じゃ!」と御所を抜け出して笠置山に挙兵。かくして元弘の乱がはじまり、全国的に内乱が広がっていくのじゃ。

後醍醐天皇が隠岐に配流された後、王権は持明院統に移るが、定房卿は後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっている。また、各地で討幕の動きが止まないことを懸念したを定房卿はは、これを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に提出しているくらいじゃ。

吉田定房は「南朝の製造人」

後醍醐帝の定房卿への信頼は厚く、のちの建武政権でも定房卿は重用されている。定房卿もまた、南北朝の騒乱では最後まで南朝を支え、後醍醐天皇と行動を共にしている。

明治を代表する歴史家であった久米邦武氏はに吉田定房卿を次のように評している。

政治の敏腕は一世を圧倒し、変化不測の画策家たり、是より以後は 帝と或は離れ或は合し、終に南山に祇候し、帝の 腹心となりて身を終れり、南朝の製造人は必定この人にてぞありぬ。

延元3年/暦応元年(1338)1月23日、定房は吉野でその生涯を閉じる。享年65。その2ヶ月後、もう一人の側近の坊門清忠が没すると、後醍醐帝はこんな歌を詠んでいる。

事問はん 人さえまれになりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる

相談相手の老臣を失くした寂しさ、悲しみ。諫言してくれる部下を持つこと、そうした部下の意見をよく聞くこと。大事なことじゃのう。