元弘3年 / 正慶2年(1333年)、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国船上山で挙兵。
これを助けたのが名和長年じゃ。
伯耆国名和の湊に逃げ延びた後醍醐天皇一行は、そこで名和長年の名を聞き、勅使を送る。これが楠木正成、結城親光、千種忠顕とともに「三木一草」と称された南朝の忠臣・名和長年が誕生した瞬間じゃ。
名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。(「太平記」)
名和氏は赤松氏と同じく村上源治雅兼流を自称、海運業を営 み、それなりに裕福であったらしい。長年は弓の名手で、五人張りの強弓を引き、一矢で二人の敵兵を射抜いたとも。
船上山の戦いでは、隠岐守護の佐々木清高ら2000余を相手に、木に四、五百もの旗を括りつけて大軍であるかのように偽装し、敵を牽制。暴風雨に乗じて襲撃をかけ、ついに幕府軍の追い落としに成功する。
この後、後醍醐天皇は船上山に行宮を設置、ここから討幕の綸旨を発すると、近隣の諸将は宮方に馳せ参じてきたという。
そこで鎌倉では船上山への派兵を決定。山陽道から名越高家、山陰道から足利高氏を差し向けるが、名越高家は赤松則村に討ち取られ、足利高氏は反旗を翻し、六波羅探題は攻め滅ぼされてしまう。
「尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし」
こうして考えると、このときの名和一族の決断は大きい。まさに「そのとき、歴史が動いた!」という感じだろうか。
もし、名和一族が恩賞目当てに鎌倉方に通じて後醍醐天皇の身柄を差し出していれば、足利、新田の裏切りもなく、鎌倉幕府の命脈は保たれたかもしれぬ。 名和長年も後世に名を残して神様として祀られることもなく、小悪党としてその生涯を終えていたのじゃろう。
とはいえ、そもそも地方の武士がそれほどまでに尊皇の志が篤かったかといえば、そんなことないのではないか。たんに北条の政治の評判悪かっただけで、不徳の致すところではある。
なお、後醍醐天皇は船上山での長年の尽力に対し、御製を詠んでいる。
忘れめや 寄るべもなみの荒磯を 御船の上にとめし心は