吉田定房により討幕計画を知らされた鎌倉幕府。さすがに2度目の企てであり、さすがに元を断たねばどうにもならない。
いやいや此君の御在位の程は天下静まるまじ。
当然じゃ。承久の乱の先例もある。幕府は大塔宮の処分と後醍醐天皇の遠流を決定し、3000の兵とともに京に使者を送った。
後醍醐天皇が京都を脱出
そこで大塔宮は一計を案じるまず天皇に替玉を立てて比叡山に入らせ、六波羅の兵を引きつける。その間に後醍醐天皇は南都に逃れ、反鎌倉勢力を糾合し、討幕の旗を挙げようというのじゃ。
さっそく後醍醐天皇は三種の神器を携え、女房車を装い、「中宮祥子が実家に急病の父を訪問する」として御所から脱出。その後、花山院師賢は替玉の天皇として大塔宮がいる比叡山の西塔に入る。替玉とは知らない延暦寺の僧兵たちは意気盛んに六波の兵を撃退する(僧兵たちは後で騙されたことに気づいて大いに憤慨、大塔宮も花山院師賢ら公家も、比叡山から逃れることになるわけじゃが)。
そして後醍醐天皇は、ひそかに東大寺東南院へ入った。しかし南都にもまた、鎌倉に親しいものがおり、身の危険を察知した天皇は、鷲峰山金胎寺へと逃れた後、笠置山で兵を挙げたのじゃ。
うかりける 身を秋風に さそはれて思はぬ山の紅葉をぞ見る
季節は秋、笠置山の紅葉も、真っ赤な鮮血のごとく染まっていたことじゃろう。
それにしても六波羅は迂闊じゃった。天の脱出に気づかず、比叡山では散々に打ち負かされて。にんとも、かんともじゃ
笠置山の戦い
さして行く 笠置の山を 出でしより天が下には 隠れ家もなし
後醍醐天皇は山中を放浪しているところを捕らえられ、笠置山の戦いは幕府軍の勝利で幕を閉じた。
すでに幕府は持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を三種の神器がないまま践祚させてていた。後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌元弘2年(1332)3月7日、隠岐島へ配流。足助重範、日野資朝、日野俊基死罪となる。
とまあ、これで一件落着となればよかったのですが、ここから楠木正成の諸葛孔明ばりの大活躍がはじまるわけで……鎌倉にとって、これは想定外じゃったよ。