今日はちょっと恐れ多いというか、僭越というか、後醍醐天皇についてじゃ。鎌倉幕府の滅亡も、南北朝の騒乱も、すめてこの御方のキャラによるものなのじゃ。
文保の和談
持明院統と大覚寺統の争いについては、それはそれはややこしく、頭が痛くなってくる。当初より鎌倉幕府としては、この争いには介入しなくなかった。それでも放っておけば泥沼になる。それに加えて、京都からの陳情もあり、しかたなく調停したのが両統迭立を旨とする文保の和談だったのじゃ。
重ね重ね僭越ながら申し上げるが、後醍醐帝は本来、皇位を継げるお立場ではなかったのじゃ。天皇になれたのはこの和談のおかげのはずなんじゃが、そのくせご自身は約束をお守りにならぬ。
この和談では、本来皇太子になるべき邦良親王が幼少ゆえ、叔父の後醍醐帝が10年間のセットアッパーとなり、その後は邦良親王、そして持明院統の量仁親王(光厳天皇)が皇位を継承するという約束になっていたはず。じゃが、後醍醐帝は院政を廃止し、約束の10年を越えても皇位をお譲りにならず、天皇親政を標榜する。
やがて邦良親王が早世されると、後醍醐帝は自分の子を皇太子に立てようと画策し、持明院統ともめはじめる。幕府としては、おだやかに決着してくれればどうでもよい問題なのじゃが、先の和談のこともあり、皇太子にすべきと奏上した。
この当時、後醍醐帝には尊良、世良、護良、宗良親王らの皇子がおられた。中でも後醍醐帝は世良親王を推していた。というのも、世良親王の母は西園寺実俊の娘で、西園寺は親幕派の公家で、鎌倉との信頼関係が厚い。そこで幕府の後押しを受けて世良親王に皇位を継承させようと考えた節がある。世良親王の乳父は北畠親房じゃから、あるいは何か入れ知恵をしたのかもしれぬな。
じゃから後醍醐帝は当初、必ずしも幕府を倒そうという腹はなかったともいえる。しかし元徳2年(1330年)、世良親王は病で早世してしまう。後醍醐帝の作戦はこれにてとん挫。その後、宋学の影響と少壮の公家の扇動、幕府内部のゴタゴタもあり、密かに倒幕を計画したというのが真相なんじゃよ(たぶんな)。
建武の新政も、もとをただせば……
世良親王の急死、自身の退位が迫ってきたことにより、後醍醐帝は倒幕へと動き出す。
以下は古典「太平記」より。
事の漏れ安すきは、禍ひを招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裏に調伏の法被行事ども、一々に関東へ聞へてけり。
相模入道大きに怒って「いやいや此君の御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任せて、遠国へ移し奉ゐらせ、大塔宮を死罪に処し奉るべき也。先ず近日殊に竜顔に咫尺奉って、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取りて、子細を相尋ぬべし。」
ただ……わしは暗愚よ、うつけよといわれますが、後の建武の新政の結果をみれば、北条のほうがよっぽどいいと思うんじゃが、どうであろうか?