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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

赤坂城、千早城の戦い…楠木正成は日本の諸葛孔明か

謹賀新年、本年もよろしくお願いいたします。

ということで、新年はじめての更新は、楠木正成についてじゃ。

楠木正成像

後醍醐天皇笠置山に挙兵すると、楠木正成河内国・赤坂城に呼応する。太平記」によれば挙兵に先立ち、正成は こう語ったとある。

若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。 是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。

正成にどこまで勝算があったのか、それはよくわからない。ただ、衰えたりとはいえ、強大な鎌倉幕府軍を相手に長期戦に持ち込むことで、時代を動かし、宮方の決起を促そうという作戦だったのじゃろう。この軍略がズバリと当たるのじゃ。 

 

赤坂城の戦いでは、わずか500の寡兵でもって、大仏(北条)貞直、金沢貞冬、足利高氏新田義貞らを30万の鎌倉勢を手こずらせる。城内から大木、巨岩を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、糞尿をまきちらしたり、ゲリラ戦法で鎌倉勢を手玉に取る。そして笠置山が陥落し、後醍醐天皇が捕縛されたことを知るや、城中に敵味方の死骸を集めて火をかけ、自害したように見せかけて潜伏し、再起のときを待った。


正慶元年(元弘2、1332)年11月、正成は河内国金剛山で再起し、12月には赤坂城を奪回する。そして摂津国天王寺では、豪勇で知られる宇都宮公綱と対峙すると、正成は戦意が高揚している相手とぶつかりあうのを避けて兵を退く。そのかわり、毎夜、宇都宮勢の周囲で松明を焚き、その数をどんどん増やし、宇都宮勢の神経をすり減らし、戦わずして京へ撤退させている。

そして、いよいよ千早城の攻防戦がはじまる。鎌倉勢は、阿曽(北条)治時を大将に、長崎高貞らの大軍勢を派兵。その数、楠木勢1000に対して鎌倉勢100万という「太平記」の記述は、さすがに大げさですが、寡兵をもって幕府軍を悩ませたのは確かじゃろう。

藁人形で兵を偽装し、敵に矢を射かけさせ、欠乏気味の矢を大量に稼いだり、近くの山から橋をかけて一気に攻め込もうとする鎌倉軍に対して、水鉄砲をかけて火攻めにするなど、その戦ぶりは奇想天外。
 
まあ、このあたりは「三国志」の諸葛孔明を連想させ、どこまで史実なのかは疑問が残る。とはいえこうした楠木軍の戦いぶりをみた地元の土豪が立ち上がり、幕府軍を挟撃するなど、鎌倉勢は窮地に立たされてしまうのじゃ。


そもそも野戦での騎馬戦ならともかく、こうした山岳戦は鎌倉幕府 軍の得意とするところではない。こうした鎌倉勢の苦戦ぶりは、幕府の弱体化を印象づける結果となり、やがて六波羅の陥落、鎌倉幕府の滅亡につながっていくことになる。

元弘3年(1333)閏2月4日、 隠岐国を脱出した後醍醐天皇は討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国の赤松則村、伊予国河野氏肥後国の菊池武時が蜂起する。また、この戦いに参加していた新田義貞は密かに後醍醐天皇の綸旨を得て、病気と称して勝手に関東へと戻ってしまう。

もちろん、幕府首脳も事態を重くみて、名越(北条)高家足利高氏を援軍として上洛させるが、ここで足利高氏が裏切り、六波羅はあえなく陥落。この間、鎌倉の精鋭は千早城に釘付けとなり、決戦に参加することなく雲散霧消してしまうのじゃ。まあ、鎌倉軍は指揮命令系統がきっちりしていないため、その持てる力を十分に発揮できなかった感もあるが……

「正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ」

この言葉の通りに時代は動き、建武政権が発足するわけじゃから、功の第一等は「悪党楠兵衛尉」ということになる。まさに寡兵をもって時代を動かした男、日本の諸葛孔明といったところじゃろうか。鎌倉幕府にとっては、なんとも厄介な存在であったわけじゃがのう……