今日はDVD「茶々 天涯の貴妃」をレンタルして、午後、のんびりとみていたのじゃが……感想とコメントはいっさい差し控えますw
秀吉には側室がたくさんいたが……
淀殿こと茶々を演じた和央ようかさんは、さすが宝塚出身。信長を思わせるような赤いマントを翻し、秀頼といっしょに家康に抗戦を告げにいったりするんだけど、どうせ、そこまでやるんだったら、いっそ、一戦交えてほしかったかも。
それと、淀殿の妹役。初が富田靖子さんというのはまだしも、江が原田美枝子さんっていうのはさすがにきつい。へたすりゃ、お母さんにみえます。
まあ、わしの場合、大河ドラマ「功名が辻」で茶々を演じた永作博美さんの印象が強すぎてね。今際の際の豊臣秀吉の枕元で、市になりきり、「茶々が生んだ子は豊臣の子ではない。天下は織田家が取り戻した。早う逝きなされ、猿」と言い放って止めを刺したシーン。怖いのう……
永作さんの淀殿を引き合いに出すまでもなく、いつも考えてしまうのは、秀頼の父親はほんとうに秀吉なのかということ。秀吉は正室のおねはもちろん、淀殿以外の側室との間でも子どもができなかった。近年では、秀吉は長浜時代に、南殿という側室との間に石松丸(秀勝)と一女をもうけたという記録があるらしいけど、このあたり、はっきりしたことはわからない。かりにそれが事実だったとしても、それは若き日の秀吉の話だし。
ちなみに秀吉の側室は淀殿、南殿の他にも……
もちろん、名前も残されることなく手をつけられた女性もたくさんいたはず。にもかかわらず、秀吉との間に子はひとりも生まれていない。少なくとも竜子とおふくは秀吉の側室になる前に子どもを生んでいるし、お種も後に伊達政宗、さらには鬼庭綱元に下賜され、一男一女を生んでいるから、原因は秀吉の側にあると考えるのが自然。
こう考えると「秀頼は秀吉の子ではない」と思われてもしかたがないし、少なくとも現代であれば、週刊誌が絶対に黙っちゃいないネタであることはまちがいないわけで。
やはり怪しいぞ、大野治長
一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子二大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、
このあたりの疑惑は、朝鮮官人の記録『看羊録』にも記載があるし、当時、すでに人口に膾炙していたことは間違いないじゃろう。
なお、秀吉は自分の死後、家康に淀殿が祝言をあげ、秀頼が成人するまでは政事を貢献するよう遺言していたという。そこで家康はこれを履行しようとしたが、淀殿がこれを嫌がり、大野治長が祝言直前に淀殿を連れて高野山へ逃げ、祝言はご破算になったというの。この事件は『多聞院日記』に記載があるが、淀殿と治長とのただならぬ関係を匂わせる事件ではある。
当の秀吉はどう考えていたのか
さて、こうなってくると気になるのは、こんな噂がたっている中で、当の秀吉はどう思っていたのかということじゃ。もちろん面と向かっていう人はいないと思うけど、秀吉ほどの男が、そもそも秀頼が自分の子かどうか、全く疑いをもたなかったとは思えない。
年をとってもうろくしていたなんてことは、まさかないと思うんだじゃが、盲目的に信じて親馬鹿を演じるしかなかった、といったところかもしれぬな。やっとこさ側室にした淀殿が生んだ子が、じつは自分の子じゃないなんてバレたら、天下人としての沽券にも関わるわけで。
というわけで、すべては歴史の闇の中。てなことを考えれば考えるほど、永作さんのが演じた淀殿……おそろしいのう。