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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鎌倉陥落、北条高時の遺児はどうなったのか?~五大院宗繁に裏切られた邦時と信濃に逃れた時行

わし北条高時の遺児・邦時こと万寿丸と、時行こと亀寿丸について。鎌倉幕府が滅亡したのは元弘3/正慶2年(1333)5月22日のこと。その直前、新田義貞が鎌倉に攻め入る前に、わしは二人の息子を逃そうとしたんじゃ。

北条高時切腹

五大院宗繁の裏切りで万寿(邦時)が惨死

まずは嫡男の万寿丸・北条邦時、当時8歳。母は常葉前で、五大院右衛門宗繁の妹じゃ。宗繁は得宗被官で、元享2年(1322)10月の円覚寺法堂上棟のときには禄役人をつとめた。わしは邦時の後事をこの宗繁に託した。

しかし、宗繁は鎌倉陥落後、恩賞目当てに邦時をあっさりと裏切りおった!

邦時は、宗繁にとって主君であり、甥でもあり、まさかワシもこのような裏切りにあうとは思ってもみなかったぞ。

邦時は宗繁の罠にはまり、伊豆国へと出発。そのときの様子を「太平記」はこう伝えておる。

昨日までは天下の主たりし相模入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。

そして、宗繁の密告により、邦時は相模川を渡るところで、新田方に捕らえられ、鎌倉へ連行されていく。

俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。

世が世なれば、北条得宗家をついで幕府執権として活躍したかもしれない邦時の悲しい最期……あんな男を信じたワシがバカじゃった。許せ、万寿。

五大院宗繁の無残な最期

ところで、この後の五大院宗繁じゃが、こうした鎌倉武士らしからぬ不忠が受け入れられるはずもない。宗繁は恩賞どころか、その首さえ危うくなり、失意のうちに遁走。その後、身の置きどころもなく、困窮の中で餓死したとか。

年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。

ざまあみろ。ちなみに「逃げ上手の若君」では、時行が五大院宗繁を斬る話になっておったぞ。

信濃に逃れた亀寿(北条時行

いっぽう、邦時の異母弟にあたる亀寿丸は、諏訪盛高に守られ、信濃に逃れている。この亀寿が、後に中先代の乱をおこし、鎌倉を奪還した北条時行じゃ。

亀寿は生年不詳のため、正確な年齢はわからないが、兄の邦時が正中2年(1325年)の生まれだから、鎌倉が陥落した元弘3/正慶2年(1333)は、年がいっていたとしても7〜8歳ということになる。

新田義貞軍がいよいよ鎌倉へ攻め入ったとき、亀寿を信濃に落としたのは、得宗被官の諏訪盛高。「太平記」によると、諏訪盛高は激戦をくぐりぬけ、北条一族の自害のお供をしようと、わしの弟・泰家の屋敷に戻ってくる。

すると泰家は周囲の人を遠ざけ、盛高にこういった。

「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相模入道殿(高時)の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや」
「されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂」

高時がいい加減だったから鎌倉は滅ぶけれど、それでも北条累代の積善からすれば、あとを継ぐ者さえいれば、きっと再興できる。だから、ここは生きのびて亀寿を守り、時至れば大軍をお越し、北条の家を再興しよう、というのじゃ。

盛高は涙をこらえ、泰家のこの言葉に従うことにする。

「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候」 

盛高は亀寿のいる扇ヶ谷へと向かうのじゃ。

母・二位局との別れ

屋敷では、二位局(新殿)がわが子の行く末を案じていたが、盛高は秘事が露見することを恐れて、こう告げる。

「此世中今はさてとこそ覚候へ。(北条家)御一門太略御自害候なり。大殿(高時)計こそ未葛西谷に御座候へ。公達(亀寿)を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候」
「若御(亀寿)も今日此世の御名残、是を限と思召候へ」

新田勢がここまで攻め入っている以上、狩り場の雉のように草むらに隠れていたところで、 敵に殺され、幼い骸を晒すよだけだ。それより高時の手にかかり、冥土のお供をさせることこそが忠孝である。

「武士の家に生まれた以上、平素からその覚悟はできていたはず」と、盛高は心を鬼にして、亀寿を抱き上げ、泣きすがる二位局を振り切り、声を荒げ、馬を走らせる。

「わつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰を育て、誰を憑で可惜命ぞや」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ」

あわれ二位局は、馬を追いかけて走っては転び、走っては転び……ついには悲しみのあまり、古井戸に身投げしてしまったと、「太平記」は伝えている。

ほんと、かわいそうなことをしてしもうた……

ちなみにこの後、時行(亀寿)は信濃諏訪頼重に奉じられ、建武2年(1335)7月、鎌倉を奪還する。

そして足利尊氏に敗れると、後醍醐天皇より朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方として戦い
続け、北条得宗家の意地をみせるわけじゃが、そのあたりの話はこちらを。