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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

十一人塚…新田勢大館又次郎宗氏を将として極楽寺口に攻入らんとせしに……

極楽寺から稲村ケ崎へむかう途中にある十一人塚。鎌倉攻めの折、極楽寺坂の激戦で戦死した、新田義貞軍の武将・大館宗氏らを慰霊する碑がある。大館宗氏は新田義貞の父・新田朝氏の娘婿。義貞とは義兄弟にあたる。義貞からの信頼も厚かったようで、宗氏は極楽寺方面での戦闘指揮を任されている。

十一人塚

古典「太平記」によると5月18日、大館宗氏は極楽寺坂でを大仏貞直軍との激戦となり、本間山城左衛門に討ち取られたという。十一人塚の碑文にはこうある。

元弘三年五月十九日、新田勢大館又次郎宗氏を将として、極楽寺口に攻入らんとせしに 敵中 本間山城左衛門手兵を率いて、大館の本陣に切込み、為に宗氏主従十一人戦死せり。即遺骸を茲に埋め、十一面観音の像を建て、以て其の英魂を弔し、之を十一人塚と称せしと云う。

これにより新田義貞は、極楽寺坂の鎌倉方の守備は堅いとみて、この後、稲村ガ崎の急峻な海岸ぞいの細道から奇襲攻撃をかけ、幕府を滅ぼしたというわけじゃな。

いっぽう『梅松論』には、宗氏は極楽寺坂ではなく、義貞と同じ稲村ヶ崎から攻め込んだとある。宗氏は前浜(由比ガ浜)付近を焼き払い気勢をあげたが、北条被官の諏訪氏、長崎氏らに逆襲され、稲瀬川付近で戦死したという。

太平記」と「梅松論」のどちらの記述が正しいのかはわからない。いずれにせよ、大館宗氏はこの功は「勤皇」とされ、大正4年(1915年)には従四位を追贈されている。

じゃあ、ここで戦死した鎌倉武士はみな、賊なのか? わしは賊の首魁か? 納得できんのじゃが。