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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

中野竹子、涙橋に散る!…もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも

今夜の「八重の桜」で、娘子隊の中野竹子さんが散ってしまった。「お城に帰ったら、八重さんに鉄砲を教えてもらいましょう」といっていたのに……

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竹子さんは、会津藩江戸常詰勘定役の中野平内の長女として、江戸和田倉の藩邸で生まれた。聡明で容姿端麗な美人じゃったが、庭での行水をのぞきにきた男たちを薙刀で追い払ったという逸話もある男勝りの女丈夫じゃった。

新政府軍が攻め込んできたとき、竹子さんと母・コウや妹たちは、松平容保の姉の照姫様が坂下宿に避難したと聞いて、その後を追う。じゃが、戦場でのこと、その情報はまちがっており、照姫様が城内にいることを知った竹子さんたちは、坂下にいた萱野権兵衛の軍への従軍を願い出る。
しかし萱野からは「女子を戦場に駈り出したと思われては会津武士の名折れ」と、従軍を拒否されてしまう。そこで、竹子さんは町野主水に、「もし従軍をお許しいただけないのであれば一同この場で自害する」と迫り、なんとか従軍許可を取り付けている。

その夜のこと。竹子さんは、母のコウと妹の優子のことについて話し合っている。優子は容姿端麗で評判の美少女。まだ幼く、足手まといになるうえ、もし敵に捕まって辱めをうけることになってはかわいそう。「ならばいっそ、この手で冥土へ……」そう話していたところを依田菊子に気づかれ、ともかくもその場は思いとどまったという逸話が伝わっている。

翌日、衝鋒隊に長岡藩の援兵を加えた400ばかりの一隊は、坂下から高久を経て、柳橋(涙橋)付近で新政府軍と遭遇する。竹子さんたちをみつけた大垣・長州藩兵たちは女子がいることを嘲笑い、「おなごじゃ、おなごじゃ〜」と生け捕りにしようとする。じゃが、竹子さんたちの武勇に手を焼き、結局は銃弾の雨を降らせることになる。

そして竹子さんは額に銃弾を受けて戦死。妹の優子が首を敵に渡さぬよう白羽二重に包んで運び、会津坂下町の法界寺に埋葬したという。

生き残った優子さんは後年、このときのことを次のように回顧している。

「妾共の戦場は、よく判りません。実際あの時は子供心にも少しは殺気立って居ましたし、只悪き敵兵と思ふ一念のみで、敵にばかり気をと られ、何処にどんな地物があって、どんな地形であったかなどゝいふ事は少しも念 頭に残って居りません。只柳土堤に敵多勢居って熾んに鉄砲を撃ち、味方も之に向 って切に撃ち合ひましたが、劫々埒明かんので、 一同驀然に斬込んだ事は覚えて居ります。其時俄然砲声が敵の後方 に起ると、敵は浮足立ちて動揺を始めたので、此機会だと味方は一層猛烈 に斬込み、婦人方も其中に交って戦ひました。妾は母の近くにて少しは敵を斬った と思ひますが、姉がヤラレタといふので、母と共に敵を薙ぎ払いつつ漸く姉に近づ き介錯をしましたが、蒼蠅き敵兵共、喧々囂々と 倍々群がりたかるので母と共に漸く一方を斬り開き、戦線外に出まし た。其時農兵の人が妾共と一緒に戦って坂下に帰る途中は首を持って呉れたと記憶して居ます。さかんに斬合た場所は、乾田で橋の東北方六丁位離れ湯川によった所の様に思はれます」
(平石弁蔵著『会津戊辰戦争』より)

こちらは中野竹子薙刀に結び付けられた辞世の句。

もののふの猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ わが身ながらも

このとき鳥羽伏見の戦いの後に自害させられた神保修理の未亡人で、やはり美貌で有名だった雪子さんも、このメンバーに加わっていた。雪子さんについては、ここで戦死したとか、捕縛されたとか、くわしい経過は定かではありませんが、この日に亡くなったことはどうやら確かなようじゃ。

この後、生き残った娘子隊は鶴ヶ城に入り、傷病兵の看護や兵糧弾薬運搬の任に就いている。妹の優子は、明治4年に会津藩士の山浦鉄四郎(蒲生誠一郎)と結婚し、斗南、函館で暮らし、昭和6年に79歳にて没している。