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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

洲崎古戦場跡・赤橋守時の最期…万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは合戦の習なり

鎌倉幕府が滅ぶとする、北条一族もただ皺腹をきっただけでない。鎌倉市深沢地区、ちょうど湘南モノレール湘南深沢駅近くの洲崎古戦場跡碑。ここは赤橋守時最期の地じゃ。

赤橋流北条氏の始祖は北条長時屋敷が鶴岡八幡宮の「赤橋」(現在の太鼓橋)近くにあったので赤橋を名乗ったという、執権2人を輩出した名流じゃ。

守時は鎌倉幕府最後の執権(第16代)。足利高氏に守時の妹・登子が嫁いでいたため、京で高氏が寝返っときには、守時が東西呼応して立つのではないかと、幕府首脳は疑心暗鬼となり、守時は謹慎を申し付けられている。

でも、これ、濡れ衣じゃった。


古典『太平記』(赤橋相模守自害事付本間自害事)にはこうある。 

懸ける処、赤橋相模守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。
されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。
侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは
「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚」
雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相模殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。

鎌倉の防衛軍で、巨福呂坂の要害を防衛した赤橋守時は、新田義貞軍の堀口貞満らと激戦をくりかえす。そして、味方からかけられた嫌疑を晴らすためか、守時は壮絶な戦死をとげるのじゃ。

最後の執権・守時は、まっすぐで誇り高き男だったのじゃ。義弟足利高氏を利用して、うまく立ち回ることも、やろうと思えばできたじゃろうに、守時はそれをしなかった。

せめて、ワシひとりでも守時を信じ、味方になってやるべきじゃったのう……許せ、守時。