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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

仏日庵 北条時宗、貞時、高時の得宗3代のお墓に行ってきましたよ

所用で北鎌倉へ行ったついでに円覚寺に立ち寄ってきた。北条時宗公が元寇戦没者追悼のため無学祖元を招いて創建した円覚寺その奥まったところに円覚寺塔頭の仏日庵がある。

時宗公はここに小さな庵をむすび、禅の修業を行っていた。時宗公没後、そのお堂の下に遺体を安置し、廟所としたと伝えられている。のちに北条家の菩提所となり、室町期に円覚寺の塔頭となったそうだ。境内にある開基廟には、北条時宗公・貞時公・そしてワシ・高時の得宗三代の木造がある。

 宝光寺殿道杲・北条時宗

北条時宗公は、NHK大河ドラマにもなっているくらいだし、陰湿なイメージのある鎌倉北条氏の中では、わりと世間からの好感度が高い。その時宗公は、元寇という国難にあたり、無学祖元に金剛経・円覚経を血書し奉納している。
その功徳のおかげもあったのか、鎌倉武士たちは二度の蒙古襲来を撃退。しかし、やはり元寇の心労がたたったのか、円覚寺落慶開堂からわずか2年後の弘安7年(1284)4月4日に没、享年34。
あだなみは ふたたびよせず なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに 

明治23年、時宗昭憲皇太后より、歌を贈られている。

 

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最勝園寺殿覚賢・北条貞時

14歳で執権をついだのが我が父・貞時公。得宗専制政治を確立し、あの借金棒引きの徳政令で有名だ。
貞時公もまた時宗公と同様、禅宗に深く帰依し、国家の安寧を祈り、円覚寺に洪鐘(国宝)を寄進している。
この洪鐘の鋳造はなかなか苦労したようで、何度も失敗したため、貞時は自ら江ノ島の弁天様に参籠して、その成功を祈願する。
すると弁天様の化身の竜神が鐘のご神体におさまり、ようやく完成をみたという逸話が伝わっている。
そんな貞時公も、晩年は愛する息子2人をあいついで亡くし、政務そっちのけで酒宴に耽ったとか。
応長元年(1311)10月26日没、享年41。


日輪寺殿崇鑑・北条高時

元亨3年(1323)10月26日、ワシ・北条高時はここ佛日庵で、父・貞時の十三回忌を盛大に執り行っている。
得宗御内人はもちろん、北条一門、足利家をはじめとする有力御家人総勢182人から、莫大な進物が収められたというから、北条得宗家の権力は、これからも盤石であるとてっきり思っておった。
じゃが、この頃すでに奥州では安東氏の乱が泥沼化し、京では後醍醐天皇が倒幕への意欲を燃やしはじめていた。
そして、そのわずか10年後、北条の都・鎌倉は新田義貞に攻められ灰燼に帰してしまう。
元弘3年(1333)5月22日没、享年31。

なお、この開基廟は江戸時代の1811年に建て替えられたものだそうだが、「新編相模国風土記稿」によれば、地下には3人の棺が安置されているとのこと。
 
ちなみに江戸時代には、おとなりの続燈庵の本堂裏の地下から、ワシの遺体などを納めたとされる石郭が発見されたとも。
続燈庵は第30世大喜法忻の塔所で、開基は法忻の弟で室町幕府引付頭人もつとめた今川範国。
今川範国は高時とともに出家したという話もあって、近しい関係にあったともいうから、そうした縁もあったのかと夢想したり。
 
ただ……ワシが東勝寺で自決したとき、遺骨なんて拾える状態とは思えないんだけど、この廟にほんとうにあるんだろうか。ワシの首については、いくつか言い伝えがあるようだけど。
 
まあ、そんな野暮なこといわずに、心静かに手を合わせてたもれれ。