伊藤祐親の娘・八重姫。源頼朝公と恋仲になり、子を宿したが運命に翻弄された女性。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では新垣結衣さんが演じ、にわかに脚光をあびることになったので、今回は八重姫について紹介するぞ。
※なお、こちらのブログはむかーし韮山の真珠院にいったときに加筆して再登校したものじゃよ。
源頼朝と八重姫のロマンスと、その後の悲劇
伊豆・韮山にある真珠院は、伊豆最大の実力者・伊東祐親の三女で、頼朝公とロマンスの花を咲かせた八重姫の悲劇を伝えるお寺じゃ。
八重姫は伊豆国伊東庄の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の三女として生まれた。祐親には、伊東祐親には河津祐泰、祐清という息子が2人、北条時政公前室、三浦義澄室、万劫御前(工藤祐経前室、土肥遠平室)、八重姫の4人の娘がいた。つまり、仇討で有名な曾我祐成・時致兄弟、北条宗時殿・義時公・政子さま、三浦義村は、祐親の孫にあたるというわけじゃ。だとすれば、北条政子さまと八重姫は叔母と姪の関係になる。
八重姫は「伊豆一の美女」といわれた評判の姫だったらしい。そんな八重姫を、「なまめいたる小冠者」(要するに色男ね)の頼朝公が見逃すわけもなし。祐親が大番役で上洛している間に、頼朝公は八重姫と逢瀬を重ね、やがて男子・千鶴丸が誕生する。
千鶴丸3歳の時、京から戻った祐親はこれを知って大激怒。「平家の咎めを受けたらどうするんだ!」と、家人に命じて千鶴丸を川に沈めて殺害し、頼朝を討とうと郎党を差し向ける。
幸い、頼朝公の乳母・比企尼の娘を妻にしていた祐親の次男・祐清が頼朝公に知らせ、頼朝公はどうにかこうにか逃げ延び、祐清の烏帽子親であった北条時政公を頼る。これが頼朝公と政子さまのロマンスへとつながっていくことになるのじゃ。
ちなみに「鎌倉殿の13人」では、八重姫は義時公の初恋の相手という設定じゃが、史実における当時の義時公は13歳ということは、いちおう書いておく。
さて、子どもを殺され、最愛の人とわかれさせられた八重姫は、その後、無理矢理、江馬四郎なる男に嫁がされる。じゃが、どうしても頼朝公のことを忘れられなかった八重姫は意を決して、ある夜、待女を連れて北条邸を訪ねる。
しかし、すでにそのとき頼朝公は政子さまとねんごろになり、結婚していた。門番に冷たくあしらわれた八重姫は傷心のあまり川に身投げし、侍女たちもつぎつぎと後を追ったという。じつに悲しいお話じゃな。
じつは、八重姫と千鶴丸は生き延びていた?
以上が「曽我物語」に記されている話じゃが、「源平闘争録」にも八重姫についての記述がある。それによると、八重姫は、頼朝公が鎌倉に幕府を開くまで生きていたというのじゃ。
八重姫が貞操を守りつづけたことに頼朝は多いに喜ぶ。そして、並みいる独身の武将の中から好きな男を選べと命じる。そこで八重姫は、千葉常胤の次男・相馬師常を指名したという。
川に沈められたとされる千鶴丸も、じつは不憫に思った祐親が密かに家来に託して奥州に落としたという伝承もある。出羽の本堂氏の家伝によれば、千鶴丸(源忠頼)は陸奥国和賀郡に落ち延びて和賀氏を名乗り、その三男の忠朝が出羽国本堂を領し、以後、本堂氏を名乗ったという。
また、別の伝承では甲斐源氏の逸見氏に預けられ、のちに惟宗忠久と名乗り、島津忠久になったという伝承もある。まあ、傍証もなくにわかに信じがたいが、興味深い話ではある。
真珠院には八重姫を祀る祠がある。中には、八重姫の木像と供養塔が安置されているとか。近くには八重姫に従って命を絶った待女たちの碑と、愛と平和の象徴とされる那木の大木が立っていたぞ。
八重姫は北条義時と結ばれていた?
「鎌倉殿の13人」では、八重姫は北条義時公の初恋の思い人という設定になっておるが、義時公と八重姫は結ばれていたという伝承もある。
というのも伊東市の最誓寺には、江間小四郎と八重姫の発願により千鶴丸の菩提を弔うために創建された西成寺が始まりという寺伝があるそうじゃ。このことから、八重姫が嫁いだ「江間四郎」が義時公だというわけじゃな。
たしかに義時公は、時政公から江間荘を譲られて江間小四郎(四郎)と呼ばれている。その頃はまだ、兄の宗時殿が健在じゃったしな。じゃが、年齢的にも状況的にも、やはりこれは義時公とは別人だというのが通説じゃ。
ただ、義時公は正室の姫の前と結婚する前に「阿波局」と呼ばれる側室がいた。その二人の間に生まれたのが3代執権・泰時公じゃ。ちなみに、後に阿野全成と結婚する義時公の妹も「阿波局」と呼ばれるから、ちょっと混乱するが、いずれにせよ義時公の側室が泰時公の母であったことは間違いない。
ドラマではこの「阿波局」を八重姫として、義時公の初恋を成就させるらしい。そして、ふたりの間に金剛(泰時公)が生まれるという設定じゃ(ネタばれすまん)。これはもちろん、あくまでもドラマじゃが、もしそうだったとすれば、側室の子であった泰時公が頼朝公や政子さまからかわいがられ、正室の子であった朝時(得宗とよくもめた名越流北条氏の祖)をさしおいて家督をついだ理由になる気がしないでもない。
頼朝が挙兵した後、八重姫が産んだ江間小四郎の子を義時公が養育したという伝承もあるらしい。だとすれば、二人が結ばれていたとしても不思議ではないのかもしれぬな。
もっとも、八重姫の実在そのものが、どこまでほんとうかが定かではない。じゃが、それを言ってしまってはロマンがないではないか。わしとしては、わが得宗の系譜のスタートにガッキーがいるということであれば、それはじつに愉快痛快。ということで、わしとしてはこの説を積極的に支持していくことにするぞ。
伊東祐親のその後
さて、八重姫の父・伊東祐親のその後について。「鎌倉殿の13人」では、「爺さま」と呼ばれ、浅野和之さんがなかなかにしぶい演技をみせてくれておったぞ。
源頼朝公が北条氏を後ろ盾に打倒平家の兵を挙げると、伊藤祐親は相模の大庭景親とともに石橋山の戦いでこれを破る。しかし、頼朝公が勢力を盛り返し関東を制圧すると、祐親は富士川の戦いの後、ついに捕らえられてしまう。
幸い、娘婿の三浦義澄が、政子さまが懐妊した吉報のタイミングで助命を嘆願したことから、頼朝公の許しを得た。しかし祐親はこれを潔しとせず、「恩情のある言葉を得て過ちを恥じる」と、けっきょく自害してしまったそうじゃ。
また、息子の伊東祐清は、さいごまで平家方として戦い、木曽義仲軍との加賀篠原の戦いで討死している。
頼朝をめぐる八重姫と政子さま、伊東祐親と北条時政公の明暗。
もし、祐親が「ここは佐殿のために!」と一念発起していたら……なんてことも考えたが、それは後世の人だからいえる結果論。じっさいに、頼朝公の挙兵が失敗していれば祐親の判断は正しかったことになるわけで、ここは時政公が乾坤一擲の博打に勝った、ということじゃろう。
ちなみに、曽我兄弟の仇討ちで知られる曽我十郎祐成と曽我五郎時致は伊東祐親の孫にあたる。五郎時致は頼朝の寝所まで踏み込んでいるから、あるいはお爺ちゃんの仇もついでにうってやろう!なんて思いがあったかどうか、それはご本人に聞かないとわからんがな。
閑話休題、伊東祐親、伊東祐清、工藤祐経、ドラマの序盤を盛り上げてくれる面々に注目じゃよ。そして義時公の八重姫への初恋の行方は? みなのもの、正座待機でみようぞ。