伊豆・韮山は北条時政公のお墓がある願成就院へ。『吾妻鏡』によると、願成就院は時政公が、源頼朝公の奥州討伐戦勝祈願のために建立したとされている。現在はこぢんまりとした境内じゃが、鎌倉時代には、伊豆屈指の大寺院だったらしい。
北条氏は、桓武平氏の庶流で、平将門を討った平貞盛の曾孫直方(なおつね)を始祖としている。その直方の孫である時方、または曾孫の時家が伊豆北条に土着して,以後、北条を称したというのが通説じゃ。
ふつうにおわれば、一地方豪族で終わりだった時政公の転機は、やはり源氏の貴公子・源頼朝公がここ伊豆に流されてきたことに尽きる。娘の政子殿が、頼朝公と恋仲になったことをきっかけに、40過ぎて官位もない さえないおっさん「北条四郎」こと時政公は、人生を懸けた勝負に出て、後の北条氏隆盛への道をひらいていくのじゃ。
時政公は頼朝公を支え、鎌倉幕府の創立に尽力し、御家人としての地位を固めていく。
もともと仕事ができるタイプだったようで、時政公は平氏滅亡後の京都に赴任し、治安維持や朝廷との政治折衝など、めんどうな職務をテキパキ処理したという。
そして頼朝公亡き後は、梶原景時、比企能員ら有力御家人をつぎつぎと追い落とし、将軍の首を源頼家公から実朝公に挿げ替え、政権を簒奪していく。
しかし、後妻の牧の方と共謀して、実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとたくらんだのは、いかにもやりすぎ(牧氏事件)じゃった。
牧の方は京都の公家の出で、時政公との間には、かわいいかわいい政範が生まれている。この政範は若くして亡くなっているけど、時政公と牧の方は政範を嫡男として考えていたふしがあり、前妻の子・政子殿と義時公とは、すでに微妙に対立していたと考えられる。
けっきょく時政公はこの牧氏事件で政子と義時によって、伊豆に追放される。そして10年後、二度と歴史の表舞台に現れることなくこの地で没するのじゃ。
「建保三年正月小八日戊辰。霽。伊豆国から飛脚参じ、申して云はく、去る六日 戌尅、 入道遠江守従五位平朝臣 〔年七十八〕北条郡に於て卒去す。日来腫物を煩ひ給ふと云々」(『吾妻鏡』)。
時政公は晩節を汚したということで、評判がすこぶる悪い。じっさい、北条九代の惣領を意味する「得宗」は、二代義時公の法号で、初代の時政公ではない。それに孫の泰時公は、時政公の仏事をぜんぜんやらなかったとか。
でも、泰時公はともかく、北条歴代はライバルをどんどん粛正して政権基盤を固めていったわけで、時政公のDNAがしっかりと受け継がれていることは間違いない。
だいたい義時公も政子殿も、光のあて方によっては真っ黒じゃ!