小田原に行った帰りに石橋山古戦場跡へと少し足を伸ばしてみた。このあたりは、みかん畑が広がっていてじつにのどかである。石橋山から鎌倉、三浦半島方面をのぞむ。
伊豆に流されていた源頼朝公は治承4年(1180)、以仁王の令旨を受けて平家打倒の兵を挙げ、石橋山に進出する。従った主な武将は、北条時政・宗時・義時、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐奈田与一、大庭景義、佐々木四兄弟、加藤景廉、仁田忠常。
大庭景親ら平家軍3,000に対し、頼朝軍はわずか300! 多勢に無勢で頼朝軍は、あっという間に敗走する。そんな中、頼朝から先陣を命じられ、奮闘したのが佐奈田与一。その余一を祀っているというのが佐奈田霊社じゃ。
与一はわずかな手勢で、剛者俣野五郎の軍勢を迎え撃つ。そして与一は俣野を組み敷くが、血塗られた短刀を抜くのに手間取るうちに駆けつけた敵に討たれてしまう。
その現場と伝えられるのがここ。土地の人は、ここを「ねじり畑」と呼ぶらしい。なんでも、この畑でとれる作物は、どういうわけか、ねじれてしまうんだとか。
こちらの祠は、与一の郎党である文三家安を祀っている。家安は、主人与一の討死を知るや、決然と敵中に突っ込み、壮烈な最期を遂げる。こうした彼らの決死の働きもあってか、頼朝公は土肥杉山方面へとからくも逃れていくというわけじゃ。
その後、洞の中に潜んでいるところを、梶原景時に助けられた話は有名じゃ。石橋山で敗れた頼朝公はその後、真鶴岬から安房に脱出し再起をはかると、鎌倉に入り、あっという間に平家を滅ぼしてしまう。
そして『吾妻鏡』には、頼朝は鎌倉に幕府を開いたあとにこの地を訪れ、2人の墓前で、その忠節を偲び、涙を流したと記されている。