先日、鎌倉にも大雪が降ったが、鶴岡八幡宮で、将軍・源実朝公が甥の公暁に暗殺されたのも、こんな日じゃったのかもしれん。今から795年前の1219年2月13日(建保7年1月27日)、鎌倉は雪が二尺ほど積もったそうじゃ。そこで今日はこの事件について少々書こうと思う。
公暁が実朝公を暗殺「親の仇はかく討つぞ!」
わしの時代に編纂された鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、事件当日のことがこのように記されている。
1月27日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
そして、御所を出発し、鶴岡八幡宮の楼門に至ると、わが祖・北条義時公はとつぜん体調不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲り、自邸へ引き上げた。義時公はこれにより難を逃れることができたのじゃが、なんともタイミングがよすぎるため、義時公は事件が起こることを知っていたのではないか、じつは事件の黒幕なのではないか、と後世、疑われることになるわけじゃ。
路次の随兵一千騎也。
宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆(北条義時)俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。
夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い 来たり、劔を取り丞相(実朝)を侵し奉る。
夜になり神拝を終え、実朝公らが退出するとき、公暁があらわれ実朝公に斬りかかり、首を刎ねた。そして、太刀持ちの源仲章を義時公と思い込み、これを惨殺した。
いっぽう同時代資料である慈円の「愚管抄」には事件の様子が、より詳しく、生々しく記してある。
夜に入りて奉幣終て、宝前の石橋をくだりて、扈従の公卿 列立したる前を揖(い)して、下がさねの尻引きて笏持ちて行きけるを、法師の行装・兜巾(ときん)と伝物したる、馳せかかりて下がさねの尻の上にのぼりて、かしらを一の刀には切て、倒れければ、頸を打ち落として取りてけり。
追いざまに三四人を同じようなる者の出きて、供の者追い散らして、この仲章が前駆して火振りてありけるを義時ぞと思いて、同じく切ふせて殺して失せぬ。 義時は太刀を持て傍らに有りけるをさへ、中門にとどまれとて留めてけり。大方用心せず、さ伝うばかりなし。皆 蛛の子を散すがごとくに、公卿も何も逃げにけり。
かしこく(平)光盛はこれへは来で、鳥居にもうけてありければ、我が毛車にのりて帰りにけり。皆散り散りに散りて、鳥居の外なる数万の武士これを知らず。 此法師は、頼家が子を其の八幡の別当になして置きたりけるが、日ごろ思ひ持ちて、今日かかる本意を遂げてけり。一の刀の時、「親の敵はかく討つぞ」と伝いける、公卿ども あざやかに皆聞けり。
石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差しかかったところに、公暁が襲いかかる。そして下がさねの衣を踏みつけ、実朝公が転倒したところを「親の敵はかく討つぞ」と叫んで、首を打ち落とした。そして源仲章を義時公と思い込み、これを斬ったとある。
「愚管抄」には、義時公は実朝公から「中門にとどまれ」と指示されていたのでため難を逃れたとあり、「俄に心神御違例の事」があって、太刀持ち役を源仲章と代わってもらったとする「吾妻鏡」と、その記載が少々異なるが、いずれにしても、義時公は間一髪で危機を逃れたというわけじゃ。
公暁は三浦義村を頼る「われは東国の大将軍だ!」
鳥居の外にいた護衛の武士たちが、この騒ぎに気付いてかけつけたとき、すでに公暁は現場を離れ、雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に逃げ込んでいた。そして、乳母夫の三浦義村に、自分を奉じて兵をあげるよう、使いを出す。
使者彌源太兵衛の尉『阿闍梨の乳母子』を義村に遣わさる。今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わさる。 これ義村の息男駒若丸門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。
義村この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、先ず蓬屋に光臨有るべし。 且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆(義時)に告ぐ。
京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべきの由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。 阿闍梨は太だ武勇に足り、直なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇敢の器を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。
三浦義村は実朝公の死を聞いて驚くが、ともかくも公暁には「迎えの使者を送ります」と偽り、義時公に事の次第を告げた。そして、義村は長尾定景を討手に差し向け、公暁を討ち取り、義時邸にその首を持参する。
阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らんと擬す。仍って定景と途中に相逢う。雑賀の次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍う処、定景太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。
これ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)、公胤僧正の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆の御亭に持参す。
亭主(義時)出居しその首を見らる。安東次郎忠家指燭を取る。李部(北条泰時)仰せ られて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有りと。
公暁が三浦氏を頼ったことから、実朝公暗殺の黒幕は三浦義村ではないか、という説もあるようじゃな。じっさい、義村の妻は公暁の乳母じゃし、子の駒若丸は公暁の門弟。浅からぬ縁であるし、公暁が三浦を頼るのは当然じゃ。そこで義村は、公暁を巧みに唆し、こんかいの犯行に及ばせたものの、かんじんの義時公を討ちもらしたことから計画を断念。公暁を殺害し、口封じをしたというのじゃ。この手際のよさ。義村黒幕説は説得力があるように思う。
じっさい、公暁の首をみた北条泰時公は、「俺は公暁の顔を知らないから、なお疑わしい」という意味深なことを述べている。泰時公は「義村、お前が黒幕なんじゃないのか?」と疑いの視線を向けているようにすら感じるのじゃが、はたしてどうじゃろうか。
実朝が詠んだ禁忌の歌「出でいなば 主なき宿と成ぬとも…」
実朝公暗殺事件の前には、いろいろと不吉なことがあったと「吾妻鏡」は記している。
たとえば、この事件の2日前には、右馬権頭(源)頼茂が、鶴岡八幡宮にお籠りし、拝殿でお経をあげながら寝落ちしてしまったところ、子どもが杖で鳩を叩き殺し、頼茂の狩衣の袖を打ってくる夢を見たらしい。そして翌朝、八幡宮の庭で一羽の鳩が死んでおり、人々は不吉だ、よくないことがおこる前兆だと、感じたという。
また、この儀式の前に、大江広元は、なぜか涙が止まらなくなったらしい。広元は実朝公に「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」というが、源仲章が「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」とそれを却下したとか。
さらに実朝公ご自身が災いがおこることを予期していたふしもある。出発前に整髪してもらっているとき、髪を一本、記念にとその者に与えているし、出発前にこんな歌を詠んでいる。
出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」を意識してのものじゃろうが、まさに「禁忌の和歌」じゃ。
そのうえ、実朝公が南門を出るとき、源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたり、車から降りる時には刀を引っ掛けて折ってしまったりと、よくないことのオンパレード。
ここまで不吉なことが続いているのなら、周囲の者も止めろよとwとくに政子さま、義時公あたりは、絶対にお止めすべきだったのに、だから黒幕とかいわれてしまうんじゃよ。とはいえ、実朝公の運命は、もうすでに定まっていた、というべきかもしれぬのう。
長くなったので、実朝公暗殺事件の黒幕についてはこちらを。