今日5月8日は新田義貞が挙兵した日じゃ。元弘3年(1333)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、生品神社に挙兵、鎌倉をめざした。
不遇をかこった新田氏
新田氏は清和源氏の一族である河内源氏義国の流れをくみ、義貞はその8代目棟梁にあたる。同じ河内源氏の流れを汲みむ足利氏が、代々、北条氏と縁組したことにより御家人の間で一目置かれる存在になっていたのに比べると、新田氏はなんとも残念なポジションじゃっった。もともと新田の祖・源義重は源義国の長男で、足利の祖・源義康の兄にあたる。しかし治承4年(1180年)の源頼朝挙兵のとき、甥の足利義兼が早々に味方に馳せ参じたのに対して、義重は当初、日和見的な姿勢をみせ、頼朝の不興をかったのがケチのつきはじめ。足利氏にどんどん差をつけられてしまったのじゃ。新田氏の北条氏への敵愾心、足利氏へのライバル心は澱のように溜まっていったことじゃろう。
大河ドラマ「太平記」では、少年期の新田義貞が足利高氏に「我らは源氏、北条は平氏、ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるではないぞ」と言い放つシーンがあったが、義貞の心中はつねに そんな思い出っぱいだったのかもしれん。
新田義貞、生品神社に挙兵
古典「太平記」によると、義貞は千早城攻めに動員されるが護良親王から密かに討幕の綸旨が届けられると、病と称して新田荘に戻ってしまう。鎌倉勢が楠木正成に手こずる様をみて、義貞は幕府にはもはや昔日の威信はないことを感じとったのかもしれん。いっぽう、幕府はかさむ戦費を工面するため、関東の各地に有徳銭という一種の富裕税を課していた。新田荘にも、北条一族の金沢親連(紀氏とも)と得宗御内人の黒沼彦四郎を派遣し、銭6万貫を要求。ふたりは庄屋に押し入り、強引な取り立てをしたという。
義貞はこれと衝突し、けっきょくふたりを捕え、黒沼を斬り捨て、幕府に反旗を翻す。
相模入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。
同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。決起した義貞は、まず鎌倉方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所を壊滅させる。そして、越後、信濃、甲斐の新田一族や、里見、鳥山、田中、大井田、羽川ら氏族が合流すると、義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、鎌倉への進撃を開始するのじゃ。
ということで、生品神社の境内を歩いてみた
境内にはこのほかに、義貞が旗を掲げた「旗挙塚(はたごつか)」や、陣を構えた「床几塚(しょうぎつか)」がある。義貞が脇屋義助や大館貞氏、堀口貞満らと兵を挙げたときはたったの150騎というから、正直、心細かったのではないじゃろうか。というか、どの程度の勝算があったのじゃろうか。
なお、生品神社では新田義貞が挙兵した5月8日に、毎年「鏑矢祭」を催しているとのこと。地元の小学生が大中黒の鉢巻きを着けて袴姿で集合。北条討伐の綸旨の奏上もあって、「天誅!」と弓を射るそうじゃ。
ここで生まれた子供たちにとって、鎌倉北条氏はやはり朝敵、賊ということなんじゃな。まあ、こればかりはいたしかたなし。