読後感はただひと言、「疲れた!」 とにかく合戦シーンが長過ぎ。しかも、なれない陸戦ではなく海戦なもので。
下巻の大半の250頁が、(第一次)木津川口の戦いの戦闘シーンで、いつまで続くの?という感じじゃった。
これはもう、歴史小説というより冒険小説・アクション小説。もう一人のというか、むしろこちらが主人公というべき眞鍋七三兵衛(しめのひょうえ)も、あまりにもあまりなターミネーターぶりだし。
でも、巻末にあった大量の参考文献からして、ほんと、よくぞまあ、ここまで描いたなと、そのパワーには脱帽なんですけれど、でも長かった。
まあ、本書のレビューは、すでにAmazonにもたくさんあるし、今さら感もあるので、このくらいにするとして、今回は木塚川口の戦いについてじゃ。
第一次木津川口の合戦について
この物語は石山本願寺合戦から始まる。上町台地にある石山の地は、天下布武を志す信長にとって西国攻略をすすめるうえで、どうしてもおさえておくべき要衝。
信長は、各地の一向宗との間で11年間にも及ぶ血みどろの戦いを続ける。
「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」門徒は懸命の抵抗に信長軍は苦しめられ、天王寺砦の戦いでは、主将の原田(塙)直政が討死する。
その後、信長は原田直政の後任に佐久間信盛を任命して本願寺を包囲、戦は持久戦となる。
そこで顕如は、毛利輝元に援助を要請。輝元は、7月15日に村上水軍を含む船700〜800艘で兵糧を運ぶために大坂の海上に現れる。
ということで物語のメイン、第一次木津川口の戦いとなるわけじゃな。
七月十五日の事に侯 。中国安芸の内、能島、来島、児玉大夫、粟屋大夫、浦兵部と申す者、七、八百艘の大船を催し、上乗侯て、大坂表海上へ乗り出だし、兵糠入るべき行に侯。
打ち向ひし人数、まなべ七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、花くまの野口、是れらも三百余艘乗り出だし、木津川口を相防ぎ侯。
御敵は大船八百艘ばかりなり。乗り懸け相戦ひ侯。
海上は、ほうろく、火矢などと云ふ物をこしらへ、御身方の舟を取り籠め、投げ入れ貼、焼き崩し、多勢に叶はず、七五三兵衛、伊賀、伝内、野口、小畑、鎌大夫、鹿目介、此の外歴此の外歴貼数輩討死侯。西国の舟は勝利を得、大坂へ兵粮を入れ、西国へ人数打ち入るるなり。(「信長公記」)
ちなみに、この戦いには、能島村上氏の当主・村上武吉は参戦せず、嫡男の村上元吉が指揮をとっていたようじゃ。
物語では、主人公の景姫とターミネーター・眞鍋七五三兵衛が死闘を繰り広げ、その脇でさまざまなキャラが活躍しているのじゃが、個人的には、堅物で頭でっかちなだけだと思わされていた元吉の名将ぶりに魅かたよ。
第二次木津川口の合戦について
で、この物語はここでおしまいなわけだけど、この戦いにより制海権を握られ、しかも摂津の荒木村重の裏切りにより信長は窮地に追い込まれる。
しかし、この「おっさん」(眞鍋七五三兵衛は作中で信長をこう呼んでいる)は、ただ者ではない。
なんと、九鬼嘉隆に命じて縦22メートル・横12メートルという巨大な鉄甲船を建造してしまうのだ。
このあたりの進取の精神は、この時代の武将の中では群を抜いているね、たぶん。
この鉄甲船の防御力はすさまじく、毛利軍自慢の焙烙火矢がまったく効かない。
しかも、信長軍は敵を殲滅する必要はなく、石山本願寺への兵糧入れを防げばよいだけだから、でんと構えて、敵の船が近づいてきたら大砲をぶっ放せばよい。
カンタンなもんじゃ。
勢州の九鬼右馬允に仰せつけられ、大船六艘作り立て、並びに、滝川左近、大船一艘、是れは白舟に拵へ、順風を見計らひ、寅六月廿六日、熊野浦へ押し出だし、大坂表へ乗り廻し侯のところ、谷の輪海上にて、此の大船相支ふべき行として、雑賀、谷輸、浦浦の小船数知らず乗り懸け、矢を討ち懸け、鉄炮を放ち懸け、四方より攻め侯なり。
九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、敵舟を間近く寄せ付け、愛し侯ふ様に持なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟余多打ち崩し侯の間、其の後は、中中寄り付く行及ばず、難なく、寅七月十七日、堺の津へ着岸侯ひしなり。
見物、耳目を驚かし侯ひしなり。翌日、大阪表へ乗り出だし、塞塞に舟を懸け置き、海上の通路を止め、堅固に仕り侯なり。「信長公記」
この戦いには村上水軍は出張っていなかったともいわれている。まあ、出張っていたところで、どうにもならなかったとは思うし、少なくともここにはなんの物語性もなさそうだから、景姫も活躍しようがなかったじゃろう。
ともかく、この戦いの結果、本願寺は食糧・弾薬の補給路を断たれ、しかも荒木村重の有岡城が陥落し、顕如は門徒の大坂退城などを条件に、信長と和議を結ぶことになる。
村上水軍について
ちなみに、村上水軍について。
村上氏は、三島村上氏と呼ばれ、能島・来島・因島の三家があり、もともとは清和源氏・信濃村上氏の庶流で、保元・平治の乱で活躍した村上為国の弟・定国が伊予に居を構えたのははじまりだという説が有力とのこと。
戦国時代には芸予諸島を中心とした海域を支配し、とくに能島村上氏は村上武吉の代に全盛を誇り、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。
しかし、戦国乱世が終わると、海賊行為はもはや権力者の許すところではなくなる。
天正16年(1588)、豊臣秀吉は海賊停止令を発令し、村上氏はこの物語で描かれているような自由奔放な活動はできなくなり、因島村上氏と能島村上氏は毛利家に仕え、長州藩の船手組となる。
来島村上氏は、早くから秀吉に臣従したため大名となるが、江戸時代には豊後国玖珠郡に転封され、もはや海とはなんの関わりもなくなってしまうのじゃ。
しまなみ海道の大島には村上水軍博物館があるらしいので、いつか行ってみたいね(遠いけど)。
それと、眞鍋海賊や泉州侍については、まったくのノーマークだったので、こちらもまた調べてみたいと思う。
それにしても眞鍋七五三兵衛は怖すぎ! 愛すべき化け物じゃ!!