少し前のニュースじゃが、岡山県の林側美術館が所蔵する「石谷家文書」の中から、本能寺の変の「四国説」にかかわる新資料が発見されたとか。
林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー
本能寺の変については、怨恨説、野望説、黒幕説など、さまざまな説があるけれど、織田信長の四国・長宗我部元親に対する政策変更が、明智光秀謀叛に大きく影響していたであろうことは、多くの有識者が指摘している。
ということで、今日はそのへんを……
明智光秀と長宗我部元親
長宗我部元親の妻は石谷光政の娘(司馬遼太郎さんの『夏草の賦』では奈々となっている)。石谷光政はもとは室町幕府奉公衆だったが、足利義昭が信長に追放されると、婿養子の頼辰とともに明智光秀に仕えている。
頼辰の実父は美濃の斎藤利賢で、明智光秀の腹心・斎藤利三は頼辰の弟にあたる。つまり元親の妻は石谷頼辰、斎藤利三の異父妹になるわけで、そんな関係から信長と元親の取次役を明智光秀が自然にとりもつようになったんじゃろう。
当初、信長と元親の関係は良好じゃった。天正3年(1575)、信長は元親に「四国の儀は元親手柄次第切取り候へ」という朱印状を与え、元親の長男・弥三郎には「信」の字を与えて「信親」と名乗らせたという。この頃、信長は武田勝頼を長篠の合戦で破り、元親は四万十川の戦いに勝利して土佐を平定。この時点では、元親との同盟に大きな意味があったんじゃろう。
しかし天正9年、信長は元親に対して、土佐と阿波半国しか領有を認めないと、これまでの方針を転換する。阿波の三好康長が羽柴秀吉に接近してきたことによるものだ。また元親に圧迫されていた伊予の西園寺氏、河野氏も旧領回復を求めてくる。
元親必死の外交交渉
特に注目は2通の書状。林原美術館のホームページには、こう説明されている。斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日) 第2巻所収
斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、石谷光政に出した書状。(中略)本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然(石谷光政)に元親の軽挙を抑えるように依頼したもので、信長と元親との対立状況がわかるとともに、利三が元親に働きかけを行った確証となる史料です。
長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収そして元親も、当初の頑なな態度をあらため、信長との交渉のテーブルにつこうとしている。その書状の日付は天正10年5月21日。
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べています。5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。斎藤利三は、やはり元親のために尽力していた。
光秀が信長に足蹴にされた件
そういえば、ルイス・フロイスの日本史にこうした記述がある。「これらの催し事(饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした」
「見たんかい!」とつっこみたくなるところは置いておくとして、「彼の好みに合わぬ要件」とは、もしかすると四国征伐のことかもしれない。
もちろん、元親を救うためだけに、光秀が謀叛を起こしたとは思えない。ただ、こうしたやりとりやタイミングを考えると、この問題が事件の大きな引き金となったことは間違いないじゃろう。
事実、本能寺の変の後、石谷頼辰ら多くの明智方の人間は土佐に逃れており、頼辰の娘は元親の嫡男・信親に嫁いでいる。少なくとも元親は、石谷氏、斎藤利三、そして光秀にただならぬ恩義を感じていたように思えるんじゃが……
ともかくも、今後の研究成果に期待大じゃな。