柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
世界最古の木造建築で世界文化遺産の法隆寺にいってきたぞ。法隆寺に来るのは、中学校の修学旅行以来。それにしても、家族で来ると拝観料も馬鹿にならんのう。
通説では、法隆寺は推古天皇9年(601)、聖徳太子によって創建されたとされている。
用明天皇が病気平癒のために寺院建立を誓願したけれど、その実現をみないままに崩御されたため、推古天皇と聖徳太子が、薬師如来を本尊として法隆寺を造ったと、歴史の授業でも習った。
修学旅行でも、五重塔、金銅がある法隆寺西院伽藍を、聖徳大使当時の姿だと説明されて、ぞろぞろと歩いていた。
これは、薬師如来坐像(国宝)の光背銘をもとにした縁起らしい。
ところが、現在では、これらの建造物は7世紀後半から8世紀初頭に建立されたものだというのが定説になっているんだそうじゃ。
そもそも、「日本書紀」には、法隆寺創建に関する記述がない。ただ、天智天皇9年(670年)の記述には、「夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震」と、法隆寺が焼失したとある。
このことから、明治以後、歴史、建築、美術学者らの間で、再建・非再建をめぐる激しい論争が続いていた。
しかし近年の調査により、これらの建造物は再建されたものであることが判明し、南東で発掘された「若草伽藍」が、聖徳太子創建当時の伽藍跡なんだそうじゃ。
まあ、それでも世界最古の木造建築であることは確かなので、まあ、よしということにしておこうかのう……
さて、こちらは東院伽藍。聖徳太子の死後、山背大兄王が殺害され、上宮王家が滅亡すると、太子ゆかりの斑鳩宮跡は急速にさびれていく。
天平時代、その荒廃をみるにみかねた行信僧都は、太子の遺徳を偲んで、この地に上宮王院(東院伽藍)を建立する。
夢殿は八角円堂の建物。かつて太子が参籠して政事や仏教に思いをめぐらせていたとき、仏様が現れて妙義を告げたという伝説にもとづいて建てられたお堂じゃ。
堂内には、聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されているのだが、ふだんは非公開ということで、ご尊顔を拝せず残念。
ところで聖徳太子のこと。昨今では「聖徳太子は架空の人物で実在しなかった」という説もまことしやかにいわれておる。かつての一万円札にも描かれていた有名な人がなんでまた、と思わんでもないけど、「日本書紀」をつくらせた藤原不比等らが創作したといわれると、さもありなんという感じもするのう。
「厩戸皇子は実在したけれど聖徳太子は創作された人物だ」
いずれにせよ謎が多い人物で信仰の対象にもなるような偉人なだけに、たいへん興味深い話ではあるのう。