今年のお盆は関西へ帰省。ただ、これまでになんどもなんども東名・新名神をいったりきたりしているので、今年は趣向を変えて日本海側を通ってみようということになった。
で、新潟県糸魚川市の親不知に泊。 「どうしても親不知に行きたかった!」というわけではなく、帰りの道のりの中間地点で犬OKの宿泊先がここしかなかった、というだけのことなんじゃが、立ち寄って正解じゃった。
お天気はいまいちで日本海一の夕日は残念ながら拝めなかったけどな……
「親不知」という地名の由来
親不知は北陸道最大の難所じゃ。飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されてできた断崖が、15kmにも渡って続いている。
越後国と越中国を往来するには、この断崖を海岸線に沿って進まねばならなかった。「親不知」という名称は、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができないほど険しい道だから、とされているが、じつは、もう一つの説がある。
壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後で落人として暮らしていた。このことを聞きつけた奥方は、京都から越後を目指して、この難所に差しかかった。しかし、難所を越える際に、連れていた子どもが波にさらわれてしまう。
親知らず 子はこの浦の波枕 越路の磯の泡と消え行く
以後、その子どもがさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったというんじゃ。
天下の嶮 ・親不知を行き交う人々
いまでこそ国道8号、北陸道があるものの、いにしえびとにとって、この地はまさに天下の嶮。旅人は、ここを通行するとき、波除不動・観音に無事を祈った。また、途中の崖には天然のシェルターが何カ所かあり、波が高いときには、ここに逃げ込んだらしい。もっとも、波がおさまらず一週間も身動きがとれなかった旅人も出たらしいがね。まさに命がけの通行だったことが偲ばれるのじゃよ。
古くは聖徳太子が羽黒山参詣の途中、この地で駒を都に返したと伝えられ(これは創作じゃろう)、源平争乱の時代には、木曽義仲が京に攻め上るとき、ここで愛馬を木曽に返したといわれ、「駒返し」の地名も残っている。
そういえば、源義経殿の一行も、この磯づたいの道を通って、奥州平泉へ向かったそうじゃな。弁慶はここを通過するとき、波に襲われ、何度も岩にしがみつくうちに、ヒゲが剃れてしまったという「弁慶髭剃り岩」などもある。
戦国時代には、上杉謙信も大軍を率いてここを通過した、京をめざしている。また、この難所を見下ろす勝山城は、越中越後の国境線を守る重要な城で、羽柴秀吉と上杉景勝、石田三成と直江兼続が会見を行っている。
江戸期に入ると、京をめざす旅人や北陸諸藩における参勤交代の道となる。加賀藩前田家では、波除け人足を雇って人垣をつくって藩主の籠を護りって通過している。
元禄2(1689)年7月12日、松尾芭蕉はこの地を訪れ、一句残している。
一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
ということで、親不知観光ホテルの脇から急峻な階段をおりて海岸に出てみたけれど、いにしえびとが通った道は、とても歩けそうにないので、愛犬と記念撮影じゃよ。
しかし、こんなところ歩くなんて……親は子を、子は親を省みる余裕がないくらいだから、犬なんて、まったく気にしてられんわ。
親不知と水上勉
親不知といえば、水上勉というかたもいるかもしれんのう。
水上勉の代表作で映画にもなった『越後つついし親不知』の舞台もここ。
杜氏の留吉は越後の雪深い村から伏見の酒蔵へ出稼ぎに行く。その間、妻のおしんは卑劣な村人に襲われ、子を身ごもってしまう。春、出稼ぎから戻った留吉は、おしんが不貞を働いたと思い、殺害してしまう。
ワシはまだ読んでないが……どんよりと暗いストーリーじゃな。
親不知について、水上勉は『新日本紀行』でこう書いておる。
越後の「親不知」を私は好き である。美しい日本の風土の中で、私はいち ばん「親不知」が好きである。私はこれまで「親不知」を何度訪れたことだろう。東京に住むようになってから若狭へ変えるたびに、私はわざわざ、北回りの汽車に乗ったのは、「親不知」の風光を見るためであった。「親不知」は激しい断崖と荒波の海しか見えない。日本の中心部を横断する中部山岳地帯が、北の海へ落ち込むのは、この親不知付近である。山は固く、頑固な壁となって北陸道へ険しく襲い かかるように、樹木の少ない荒ぶれた肌をみ せて落ちこんでいる。
私がもっとも 好きなのは、いまは国道の出来ている崖の道から、のぞき込むのさえ恐ろしいような嶮所である。北から風波をすぎて、市振に向かう 途中にそれはある。岸壁に、誰がそのような 彫字をしたのかしらないが、「矢如砥如」とあり……
親不知コミュニティロードを歩くと、水上勉が見たであろう絶景を堪能することができる。ちなみに、このコミュニティロードは2代目で、眼下の波打ち際が初代・北陸道、3世代目は現在の国道8号、そして4世代目が北陸自動車道。