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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

桶狭間の戦い…御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

先日、桶狭間の戦いについて書いたけど、今回はそのおまけ。最近の研究成果により、桶狭間の戦いのイメージは、かつてのそれとはずいぶんとちがってきているようじゃな。

桶狭間の戦い今川義元の上洛戦ではなかった

むかし読んだマンガ日本史では、たしか今川義元は足利幕府をたすけて天下に号令するために上洛する途中、織田信長乾坤一擲の奇襲により討死したとあったような記憶がある。しかし、じっさいは、義元には上洛の意図はなく、今川・織田間でたびたび繰り返されてきた三河尾張の支配権を争う戦だったというのが、現在の定説のようじゃ。今川方の最前線にあたる鳴海城、大高城が織田方の付け城(砦)に囲まれたため、これを取り除き、あわよくば尾張に深く侵攻しようと、まあ、こんな感じだったとのこと。

また、両軍の兵力も織田方2000に対して今川方は4万〜5万とされていましたが、これは盛りすぎで、多くても2万5000程度だという。もちろん兵站を担う輜重兵も含んでの話。しかも、義元の兵は各方面に分散しており、信長と直接激突した今川軍本陣は5000程度と推定され、こうなると戦術次第で十分に戦える数字じゃ。なんか、劇的感が薄れるね。それに信長の戦法も従来のイメージとはずいぶんと異なるようなんじゃ。

信長の戦法は迂回攻撃か、正面突撃か

永禄3年(1560)5月12日、今川義元駿府を発ち4万5000の兵を率いて東海道を西進。5月17日には三河に近い沓掛城に入り、翌18日夜には松平元康(徳川家康)を先行させ、大高城に兵糧を届けさせている。そして翌19日には、松平元康と朝比奈泰朝が織田軍の丸根砦、鷲津砦の攻撃を開始している。

一方の信長は、籠城か、野戦か、それまでろくに軍議も開かなかったが、今川軍が丸根砦、鷲津砦への攻撃を開始したことを知ると、有名な「人生五十年……」の「幸若舞(敦盛)」を舞い、明け方に清洲城より単騎駆け出していく。そして熱田神宮に到着、後から駆けつけた軍勢とともに戦勝祈願を行い、鳴海城を囲む付け城の善照寺砦に入る。織田軍の数はわずかに2,000。

今川軍は丸根砦、鷲津砦を落とし、さらに中嶋砦から吶喊してきた佐々政次、千秋四郎を討ち取る。ちなみに、この吶喊部隊の中に、当時、信長の勘気に触れていた前田利家がいたという話もある。この捗々しい戦果に、今川義元はご満悦だったらしい。

さて、この後の信長の進軍ルートのこと。従来は、今川軍の動きを諜報によりキャッチした信長は、善照寺砦から北に迂回し、桶狭間北方の太子ヶ根から眼下の谷間で休息していた今川軍を奇襲したと考えられていた。これが江戸時代に小瀬甫庵が著した「信長記」に基づく「迂回奇襲説」で、わしなんぞも桶狭間といえばこの印象が強い。

じゃが、最近では「正面攻撃説」が支持されているらしい。これは、太田牛一の「信長公記」の記述に基づくものじゃ。

善照寺砦で陣容を整えていた信長のもとに前線からの諜報が入る。
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

桶狭間というと谷間、窪地のイメージがあるが、「信長公記」には、今川義元が布陣していたのは「おけはざま山」とある。どうやら 谷あいの窪地に布陣していたわけではないようじゃ。しかも「信長公記」には、信長は善照寺砦を出て鳴海城攻めの最前線である中嶋砦に入り、そこから出撃したとある。中嶋砦は義元本陣との距離はわずかに数キロ。信長軍がそこから出撃したとなれば、正面から攻撃を仕掛けたことになる。

信長は全軍に出撃を布達する。

各々よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。其上小軍にして大敵を恐るること莫かれ。運は天に在り。此語は知らざる哉。懸からばひけ、しりぞかば引付くべし。是非に稠倒し、追崩すべき事案の内なり。分捕をなすべからず、内捨たるべし。軍に勝ちぬれば此場へ乗つたる者は家の面目、末代の高名たるべし。只励むべし。

今川軍が疲労している今こそ勝機!と、信長は「おけはざま山」の山際・釜ヶ谷へと兵を繰り出す。このとき、にわかに視界を妨げるほどの豪雨がやってきたという。その凄まじさは楠木の大木がひっくりかえるほどだったそうで、これに乗じてまんまと今川軍に近づいた織田軍は、「これぞ熱田明神の御力であろう」とささやき合ったとか。

やがて雨がやむと、信長は槍を天に突き出し、大音声で「すはかゝれすはかゝれ」と下知し、織田軍は今川軍めがけて吶喊する。

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおっ取て大音声を上げて、すはかゝれすはかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはっと崩れたり。弓・鑓・鉄砲・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり。 天文廿一年壬子五月十九日、旗本は是なり。是へ懸れと御下知あり。未剋東へ向てかゝり給ふ。初めは三百騎ばかり真丸になって、義元を囲み退きけるが、二・三度、四・五度、帰し合せ帰し合せ、次第に無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり。信長も下立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし火焔をふらす。然りといへども、敵身方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。服部子平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。

織田軍の急襲に今川軍は大混乱となり、前衛部隊は一蹴されてしまう。救援に駆けつけた松井宗信、井伊直盛らも討死。義元は塗輿も捨て、旗本に守られて退却しようとするが織田軍に捕捉されてしまう。そして義元は追いすがる服部小平太を返り討ちにしたものの、毛利新介に組み伏せられ、ついに首をとられてしまったのじゃ。ちなみに、このとき義元は毛利新介の左指を喰い切ったという話もある。

かくしておけは様の戦いは信長の乾坤一擲の大勝利に終わったが、これがはたして信長の計算通りだったのか、たまたま本陣に肉薄できたのか、このあたりはどうも判然としない。ただ、いずれにせよこの後、義元を討たれた今川軍は駿河に後退、松平元康は岡崎城に入り、信長と同盟関係を結んでいる。この後の今川家の行く末はご承知のとおりじゃ。

いかにも残念な今川義元

この戦いの結果、後世、信長は天下布武への道を歩みだした英雄、義元は公家かぶれの軟弱者という対照的なイメージとされてしまった。じっさい、後年描かれる義元は、お歯黒で真っ白なバカ殿メイクをしていたり、やたらブクブク太っているしな。

「海道一の弓取り」といわれた戦国武将がこれではうかばれない。今川義元復権のために、いずれまた何か書きたいと思うが、今回のところはこれにて。