12月になった。今年1年を振り返りつつ、過去のブログ記事をぱらぱらみていたんじゃが、この夏に行った川中島のことを書いてなかったので、今更ながらエントリー。
今年も古戦場とかうろうろしていたんで、不穏な場所をうろうろしてきたんで、なんか背負ってきちゃったりしてないか、心配していたんだけどねw
川中島の戦いは、甲斐国の武田信玄と越後国の上杉政虎(謙信)とが、計5回12年にわたって、北信濃の支配権をめぐって争った合戦の総称。そのひとつひとつの説明は省略するが、その中で最大の激戦が、永禄4年(1561)、ここ八幡原で繰り広げられた第四次合戦じゃ。
この合戦は両軍で最大の死傷者を出した激戦だったんじゃが、その具体的な経過は軍記物の「甲陽軍鑑」に記されているだけで、裏付けとなる同時代資料がない。そこで、かなりの創作が入っていると考えられているんじゃが、まあ、それはさておき、つらつら書いていこう。
上杉武田両軍が川中島に
永禄4年(1564)8月15日、上杉謙信は善光寺に着陣。荷駄隊と兵5000を善光寺に残し、兵13000を率いて更に南下し、善光寺平南部の妻女山に陣取る。このとき、直江山城守は武田方の高坂弾正が守る海津城を攻略するよう献策したが、謙信は笑いながら 「弱兵の城を攻めるのは、卑怯未練の戦、臆病者のすること。こんな城は問題ではあるまい」と素通りしたと伝えられている。
こちら、妻女山からの眺め。松代の町、千曲川の流れと川中島平一帯を見渡せ、武田軍の動静をうかがうには絶好の場所のように思えるが、同時に武田軍に囲まれると孤立するおそれもある。
いっぽう、武田信玄は約2万の兵を率いて8月18日に甲斐国を出発。24日には茶臼山に陣取り、千曲川の岸に二十六段に布陣し、上杉軍の善光寺への退路を断つ。そして海津城では高坂弾正が乱杭、逆茂木を構え、上杉軍に備えている。
こうして両軍の睨み合いが続く中、武田軍は29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城する。信玄は、戦いが長引けば味方の戦意も損なわれ、越後国から援軍が到着する前に戦線を打開する必要があると判断し、上杉軍攻略の策を立案するよう、軍師・山本勘助と馬場信房に命じた。
そこで出てきたのがかの有名な「啄木鳥戦法」じゃ。
啄木鳥戦法と謙信・信玄一騎討ち
山本勘助は、軍勢を二手に分け、大規模な別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃する策を献じている。上杉軍が妻女山から下りてくるのところ、本隊が八幡原で鶴翼の陣で待ち伏せし、別働隊と挟撃して一気に殲滅するという作戦じゃ。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と呼ばれている。
信玄はこの策を受け入れ、高坂弾正、飯富虎昌、馬場信房、小山田昌時、甘利清晴、小山田信重、真田幸隆、相木政友、芦田幸成、小幡信定ら、1万2000の別働隊が編成された。
しかし、さすがは軍神・上杉謙信。海津城からの炊煙がいつになく多いことから、武田軍によるこうした動きを察知したという。そして全軍に密かに下山を命じ、夜陰に紛れて雨宮の渡しから千曲川を渡河し、武田軍の裏をかいたのじゃ。
午前8時頃、深い霧が晴れたとき、いるはずのない上杉軍の旗が眼前に翻っているのをみて、武田軍本隊は戦慄する。
謙信は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣で武田軍に襲いかかり、武田信繁、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死していく。
そして謙信は信玄の本陣に斬り込みをかける。愛馬の放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は、床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもって凌いだという、有名な場面じゃ。
後に頼山陽は川中島で戦った謙信に思いを馳せ、こう吟じている。
鞭声肅肅夜河を過る
曉に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す
上杉軍は鞭の音もたてないように夜に乗じて静かに川を渡る。明け方、武田軍は、突然上杉数千の大軍が大将旗を立てて面前に現れたのに驚愕する。しかし、無念なことに、この十年来、一剣に磨きをかけてきたのに、流星のごとく光を放って剣を打ち下ろした一瞬に、目指す大敵・信玄を打ちもらしてしまう。
じっさいにこうした場面があったかどうか、これは不問に付そうね。
川中島の戦いの勝利者は?
永禄7年(1564)にも上杉謙信(当時は輝虎)は 川中島に出陣している。いっぽう、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣。このときは両軍にらみ合いのまま終了し、これがさいごの川中島の戦いとなる。
ところで、この川中島の戦いは、勝利の軍配はどちらにあげるべきなのじゃろうか。けっきょく北信濃は武田の支配下 となったわけじゃから、武田信玄の勝利ということになるんじゃろうか。ただ、武田信繁、山本勘助らが討死するなど、武田方の代償も大きく、痛み分けといったところかもしれぬ。
後年、豊臣秀吉が川中島を訪れたとき、この合戦について「はかのいかぬ戦をしたものよ」と評したという。この感覚は、なんとなくわかるね。
たしかに12年間の長きにわたり、上杉謙信と武田信玄がにらみ合い、ぶつかり合った川中島の戦いは戦国屈指の大戦のひとつではある。おまけに大将どうしの一騎討ちもあり、物語としての劇的さも感じる。
じゃが、そのわりに得るものが小さいというか、労多くして益なし、という感じ がしてしまうんじゃ。
川中島での大激戦の前年、永禄3年(1563)には、桶狭間で織田信長が今川義元の首をとり、天下布武へと歩みだしている。
謙信・信玄亡き後には、その後継者である上杉景勝と武田勝頼は同盟を結ばざるを得なくなり、武田勝頼は織田信長に滅ぼされ、上杉景勝も本能寺の変で滅亡は免れたものの 、最期は秀吉に屈するわけじゃからのう。
天下人秀吉の目からみれば永禄年間の壮大な無駄戦、「はかのいかぬ戦」ということになるんじゃろう。少なくとも、軍師官兵衛ならば、こういう戦はしませんよとw
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」 孫子