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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

日野資朝…首を将って白刃に当つ。截断一陣の風

後醍醐天皇の側近といえば、日野資朝日野俊基。日野家は、藤原北家の内麻呂の子、真夏の孫にあたる藤原家宗が、日野に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀り、その子孫の資業があらためて薬師堂を建立し、姓を日野としたのがはじまりとのこと。日野資朝はこの嫡流で、俊基は傍流にあたる。なお直系ではないけれど、親鸞聖人や一休さん日野富子も日野の一族にあたり、なかなか変わった人物を輩出しているんじゃな。

で、今日は日野資朝について。

 

 

資朝の父は日野俊光で、日野家は持明院統だった。しかし、資朝は持明院統花園上皇に仕えながらも、次第に大覚寺統後醍醐天皇に重用され、ついに俊光に義絶されている。

日野家は代々、儒学の家なので、そのあたりから後醍醐天皇と意気投合したと思われるが、おたがいに「奇人」だったことも、ふたりの結びつきを強めたのかもしれん。

資朝にの奇人ぶりを伺わせる逸話が、「徒然草」ある。

西大寺の老僧が参内したときのこと。西園寺実衡は、長年にわたる仏道修行におもいをはせ、「なんと尊いお姿だ」と感じ入っていたところ、横で聞いていた資朝は「たんなる老いぼれじゃねぇか」(「年のよりたるに候」)と吐き捨てたという。そして後日、資朝から西園寺邸に老いて毛が禿げたむく犬が届けられる。

「このお姿が、あまりにも尊く見えたのでお届けいたしました」

当時、西大寺には朝廷や幕府に取り入る僧が数多くいたため、資朝は、それが気に入らなかったのだといわれている。それにしても、西園寺実衡は時の内大臣。それをこんなふうに小馬鹿にしてしまうあたり、まちがいなく宮中ではういていたんじゃろう。

また、京極為兼が逮捕され、六波羅庁へ連行されていくのをみた資朝は、「ああ、うらやましい。この世に生きている思い出には、あのようでこそ、ありたいものだ」と言い放ったという。後年、資朝はこの希望どおり、六波羅に引っ立てられていくことになるが、まさに本願成就じゃな。

さらに、こんな逸話も。
資朝が東寺の門で雨宿りをしていると、そこに不具者どもが集まっていた。手も足もねじ曲がり、からだのどこもかしこ異様なのを見て、大いに珍重する値うちがあると、しばらく見続けていたが、だんだん醜く、厭わしく思えてきた。そして邸に帰ると、「近ごろ植木を好んで、風変わりで曲がりくねっているものを求めて、目を楽しませていたのは、あの不具者をおもしろがるのと同じだ」と、鉢に植えていた木々をすべて捨ててしまったという。

現代の視点からすると、ちょっといかがなものかと思ってしまう記述じゃが、この発想は、ふつうのお公家さんではないね。

そんな奇人・日野資朝は、変人・後醍醐天皇と波長があったんじゃろうな。かの有名な「無礼講」を開いて、討幕計画をすすめていく。しかし、「当今御謀反」は鎌倉幕府の知るところとなり、日野資朝は捕縛され、佐渡島へ流罪。そして、その7年後の正慶元年/元弘2年(1332)6月2日、後醍醐天皇の二度目の倒幕計画が露見し、配流先で処刑されるのじゃ。

五蘊 仮に形を成し 四大今空に帰す
首を将って白刃に当つ 截断一陣の風

43歳。後醍醐天皇の場合は皇位を自分の子に受け継がせたいという私心があったんじゃろうが、資朝の場合は、鎌倉の堕落ぶりをみて、理想の政治を成し遂げたいという純粋な面があったのかもしれん。もし、この人が生きていたら、建武の新政も少しはましだったかもしれぬのう。

ちなみに、資朝の兄の資名は京都を追われた光厳天皇に従っており、弟の賢俊は光厳上皇院宣足利尊氏に届け、ともに持明院統のために尽くしている。