新年、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをどうぞ、よろしくおねがい申し上げます。
と、ご挨拶しつつ、新年一発目の更新は昨年末、名古屋にいったときのネタ。熱田神宮に参拝したときのことじゃ。
熱田神宮といえば源頼朝公の母・由良御前がここの大宮司の娘であり、また織田信長が桶狭間の戦いに出陣する前に先勝祈願をしたことでも有名じゃな。そういえば、名古屋グランパスや中日ドラゴンズも毎年、優勝祈願に訪れると聞くぞ。
熱田神宮の御神体は草薙剣
熱田神宮の御神体は三種の神器の一つである草薙剣(天叢雲剣)。三種の神器とは、八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣のことで、皇室はもちろん、天皇陛下でさえも実見はなされていない。そんな熱田神宮の由緒には、こうある。
熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました(熱田神宮HP)
せっかく熱田神宮に参拝したので、草薙剣について調べてみた。なお、ワシは神代、古代史はまったくの素人なので、以下は備忘録ということで……
草薙剣はスサノオ(素戔嗚尊)が出雲国で倒したヤマタノオロチ(八俣遠呂智)の尾から出てきた剣。この大蛇の上に常に雲気がかかっていたので、もとは天叢雲剣と呼ばれてた。
天叢雲剣は、スサノオから天照大神に献上される。そして天孫降臨の際、天照大神は天叢雲剣を八尺の勾璁(やさかのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)とともに、孫のニニギ(瓊瓊杵尊)に授けます。これが三種の神器として、神武天皇以後、継承されていくんじゃ。
その後、三種の神器は伊勢神宮に留め置かれていたが、景行天皇の時代、伊勢国のヤマトヒメ(倭姫命)は天叢雲剣を東征に向かうヤマトタケル(日本武尊)に託す。ヤマトタケルは、静岡県の草薙、焼津あたりで、敵が放った野火に囲まれ窮地に陥るが、この剣で草を薙ぎ払って迎え火を起こし、難を逃れている。このことから、神剣は「草薙剣」と呼ばれるようになったそうじゃ(「日本書紀」)。
東征の後、ヤマトタケルは尾張国でミヤズヒメ(宮簀媛命)と結婚する。しかしヤマトタケルは伊吹山の悪神を討伐に向かったときに病を患って亡くなってしまう。そこでミヤズヒメは、熱田神宮を建立し、残された草薙剣をお祀りしたというわけじゃ。
三種の神器のひとつ、草薙剣について
ところで、熱田神宮の御神体となった「草薙剣」じゃが、天智天皇即位の年(667)、新羅の僧侶に盗まれる事件が起きている。幸いなことに、この僧侶は途中で暴風雨に遭い、神剣は無事に戻ってくるんじゃが、これにより、しばらく宮中に留め置かれることになる。しかし、つぎの天武天皇が病に倒れると、神剣を熱田神宮に戻さなかったことによる祟りと懼れられ、草薙剣は熱田神宮へ戻された。
ちなみに、よく「草薙剣は平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中深く沈んだ」といわれるが、こちらはどうやら崇神天皇のときにつくられた形代(けいだい)、いわゆるレプリカらしい。この草薙剣の形代はけっきょく見つからず、順徳天皇即位の時に、伊勢から新たに剣を奉って宝剣としたんじゃ。この件で義経殿もは散々叱られたようじゃが、でも、どうせレプリカなんじゃから、出てこなくても問題なかったとワシは思うけどな。まあ、頼朝公も後白河法皇は、そういうわけにはいかなかったんだろうね。
そして南北朝の争乱では、後醍醐天皇は三種の神器の贋物を北朝に渡しているが、元中9年/明徳3年(1392)、足利義満の斡旋により南北朝合一が実現。神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡り、現代に至っている。
ということで、ヤマタノオロチから出てきたオリジナル(←不遜ないいかたかも)はここ、熱田神宮の奥深くに安置されているということになる。とはいえ、その実体はだれも検分したわけではない。江戸時代に盗み見た神官が原因不明の病で死亡したとか、戦時中に昭和天皇の侍従が空襲で焼かれないように、密かに木曽山中に疎開させようとした、などという話が伝わるだけで、だれか見た人がいるわけではない。
とはいえ、威風堂々とした社殿、境内でそこかしこに感じられる霊気というか神気で、草薙剣は確かにここに存在する、という気持ちにはしてくれるぞ。