すまんが、これも昨年のネタじゃ。年末、関西にいく途中に長篠城跡、設楽原に立ち寄ってきたときの話じゃ。新東名浜松いなさICでおりて一般道をおよそ30分も走るとこの看板……
鳥居強右衛門(すねえもん)、もうちょっとましに描いてあげないとwww
鳥居強右衛門と長篠城攻防戦
鳥居強右衛門は奥平家の家臣で、長篠の戦い当時は数えで36歳。奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆でしたが、武田氏が三河に侵攻してくるとそれに従属。しかし、武田信玄の死により、再び徳川に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買う。
長篠城は勝頼が率いる1万5000の武田軍に攻囲されると、落城の危機を迎えた。
城主・奥平貞昌は岡崎城へ援軍要請の使者を送ることを決め、武田軍の重包囲の中、使者の役割をかってでたのが鳥居強右衛門。強右衛門は夜陰に乗じて城を出ると、得意の水泳で川を潜り脱出に成功、翌朝、烽火で脱出の成功を城に伝えたあと、岡崎城にたどりつく。
岡崎ではすでに織田信長が武田との決戦のために3万の援軍を率いて到着、翌日にも長篠城救援に出発する手はずを整えていた。強右衛門はこの吉報を仲間に知らせるべく、長篠城へ引き返す。しかし、入城を試みたところで武田の兵に発見され、捕らえられてしまうのじゃった。
織田・徳川との決戦の前になんとしても長篠城を落としておきたい武田勝頼は、命を助け、武田家で厚遇することを条件に、強右衛門に「援軍は来ない」と城に向かって叫ぶよう命じる。強右衛門はそれを承諾し、長篠城西岸に引き立てられていく。しかし、強右衛門は武士じゃ。城の仲間に向かって「あと2、3日で織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱しろ!」と叫んだ。激怒した勝頼は、その場で強右衛門を殺しますが、この強右衛門の決死の覚悟に城兵たちの士気は大いに上がり、ついに城を守り通したのじゃ。
さて、織田・徳川軍の来着を聞いた勝頼は、長篠には3000の兵を残し、自らは兵1万2千を率いて設楽原へ向かう。そこで、徳川家康の重鎮・酒井忠次は、約4000の別働隊を組織し夜明け近くに長篠城を包囲する武田軍が陣取る鳶ヶ巣山砦、中山砦、久間山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ伏所砦を強襲する。そして籠城していた奥平軍が追撃にうつり、主将の武田信実(勝頼の叔父)をはじめ高坂昌澄らが討ち取られ、武田主力軍の背後を脅かすことに成功した。
アラモ砦と長篠城
北側の駐車場から近づくと気がつかないが、長篠城は豊川と宇連川という二つの川が合流する断崖にある天然の要害となっている。
本丸跡には、岡崎市出身の地理学者・志賀重昴が建立した「アラモ砦」に関する記念碑があった。アラモ砦といえば、ジョン・ウエインの映画でも有名じゃが、なんでこんなところにこんなものがあるのだろう?と不思議に思っていたところ、説明書があった。
アラモ砦は、テキサス独立戦争中、メキシコ軍7000の攻撃に対してテキサス軍185人がなんと13日間にわたり立て篭った僧院。この戦いの最中、援軍を求めに伝令に走った使者は、その後、アラモに戻って仲間たちと運命をともにしている。で、このアラモの戦いが、長篠城攻防戦と似ているということから、志賀はアラモ砦跡に記念碑を建立したんだそうじゃ。
もっとも、アラモの砦は陥落し。長篠城はもちこたえたので、その結末は真逆。また、そもそもこの鳥居強右衛門に関する逸話は「甫庵信長記」と「三河物語」にこそ記述されているものの、同時代資料である「信長公記」には記載がないこともあり、江戸時代に幕府が徳川か診断礼賛のために創作したお話だ、という説もある。
まあ、そういう興ざめな話をするのも野暮というものじゃがのう。
わが君の命にかわる玉の緒を何いとひけん武士(もののふ)の道
強右衛門の辞世の句じゃ。
ということで、ここから先は設楽原の決戦、あの信長による鉄砲3000丁による三段撃へのすすんでいくのですが、それは明日あらためて。