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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

小手指原・久米川の戦い…只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける

ネットをみてたら妙なニュースに出くわした。なんでもロト7の1等が、新田義貞が攻め込んできた鎌倉街道「上の道」沿いに集中しており、ひそかに「8億の道」として評判になっているというのじゃ。


鎌倉街道沿いで「ロト7の1等」続出のナゼ

源氏の流れをくむ名門なのに、北条に疎遠にされて貧乏御家人だった新田義貞が、わずか150騎で旗揚げし、この街道をすすむうちに万余の軍勢となって鎌倉幕府を攻め落とし、一躍時の人になった鎌倉街道。一攫千金に通じるものがあるのかもしれぬのう。

記事中には新田義貞が陣を構えたと伝わる八国山の将軍塚が、パワースポットとして紹介されていた。ワシも恩讐を超えて、一度、訪れてご利益にあやかりたいもんじゃな。

 

ということで、今回は新田義貞の進軍ルートをふりかえっておこうかと。

幕府軍と新田軍が激突したのが小手指原、久米川の戦いじゃ。 新田軍は足利千寿王(義詮)の合流もあって、雪だるま式にふくらんでいく。

去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。

これは「太平記」の記述じゃ。鎌倉に急を報せる緊迫した情勢が伝わってくるじゃろう? 幕府は桜田(北条)貞国を総大将とし、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らを新田討伐に向かわせた。桜田貞国は、得宗家当主で第9代執権をつとめたわが父・北条貞時から「貞」の偏諱を受けた北条一門、責任は重大じゃ。

正慶2年(1333年)5月12日、幕府軍と新田軍は小手指原で衝突します。雲霞の如くふくれあがった新田の大軍に幕府軍は押され気味。それでも北条の意地をみせて果敢に吶喊する。

爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。

その後、幕府軍は久米川に陣を張り、八国山の新田軍と対峙する。そして夜明けとともに戦は再開。幕府軍は、ここを切所とふんばるものの、勢いづく敵を止めることができない。

両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。

苦戦を聞いたワシは、弟の泰家を総大将として10万の援軍を派遣することにした。そして、泰家は多摩川を最終防衛ラインと定め、背水の陣を敷いた。いよいよ運命の分倍河原の戦い。北条にとって「絶対に負けられない戦い」じゃ。

鎌倉幕府滅亡まで、あと10日。

※写真はいずれもWikipediaから拝借しました。