正慶2年(1333年)5月15日、武蔵国多摩川畔の分倍河原で、鎌倉幕府軍と新田義貞軍が激突した。分倍河原の戦いじゃ。
北条泰家、新田義貞を破る
小手指原、久米川の戦いで桜田貞国の苦戦を聞いた鎌倉幕府は、わが弟の北条泰家を大将に10万の援軍を差し向けた。
其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。
「太平記」は、これを北条の「運命の尽きぬる処」と記している。たしかに北条は唯一のチャンスを逸してしまったのかもしれぬのう。
すでに京都は後醍醐天皇方に制圧されていますが、ここで新田を返り討ちにすれば、北条の底力をみせつけ、関東に割拠することもありえたかもしれないのじゃが……
劣勢の新田義貞軍に三浦義勝が合力
その日、大敗した新田義貞のもとに、相模国の軍勢を率いた三浦一族の大多和平六左衛門義勝が馳せ参じる。平六左衛門は、義貞に向かってこう述べたらしい。「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき」
「義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん」
その翌朝、平六左衛門は一方の先手として幕府軍を急襲。新田軍も三方から押し寄せ、幕府軍は大いに攻め立てられ、たまらず敗走する。
去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。
阿保入道父子と横溝八郎の奮戦
新田義貞はついに多摩川を渡った。これに対し、泰家は幕府の関所である霞ノ関一帯で、最後の防衛戦を行っている。しかし、勢いづいた敵を食い止めることはできず、新田の騎馬隊に追い込まれた泰家は、家臣の横溝八郎と安保入道父子の奮戦により、どうにか一命を取り止め、鎌倉に戻っている。
討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道(泰家)も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。
新田義貞の前にだらしなく敗走した印象の鎌倉軍じゃが、そうした中にも、奮戦した忠義者がいたんじゃな。ほんと、ワシは涙がでるぞ。多摩市の観音寺では、阿保入道父子と横溝八郎の位牌を祀り、毎月、関戸の戦いがおこなわれた16日には、合戦で命を落とした兵たちの供養をとりおこなっているらしい。
さて、同じ頃、鎌倉街道「下の道」からは、新田義貞に呼応して千葉貞胤、小山秀朝らが攻め込んできた。六波羅陥落の悲報が京都から鎌倉に届いたのも、このタイミングじゃった。
かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。
鎌倉はいよいよ最期の時を迎えることとなる。正慶2年5月16日、鎌倉幕府滅亡まで、あと6日じゃ。