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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条基時…待てしばし死出の山辺の旅の道 同じく越えて浮世語らん

今日5月9日はさいごの六波羅探題北方、北条仲時の命日。北条仲時は足利高氏らに攻められ、光厳天皇後伏見上皇花園上皇を奉じて鎌倉へ落ちようとしたんじゃが、近江国番場峠で再び野伏に襲われ、蓮華寺本堂前で一族432人と共に自刃している。

 

仲時は普恩寺流の四代目。父は13代執権をつとめた北条基時じゃ。北条基時もまた、鎌倉陥落を前に仲時の後を追って、死出の旅路に出た鎌倉武士じゃ。

北条業時を祖とする普恩時流の北条基時は、六波羅探題北方、幕府評定衆引付衆を歴任後、13代執権となる。ただしこれは先代執権の北条煕時が病で執権職を辞任したため、ワシ・高時までのつなぎ役として起用されただけのこと。政治の実権は内管領長崎円喜、高資父子が握っており、ワシに執権職を譲った以降は、出家し、信忍と名乗り、政務からは完全に身を引いておった。

正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉を攻めて来た際には、化粧坂の守備につく。基時は寡兵ながら5日間にわたり奮闘し、新田軍をよく防いでくれた。じゃが、他の攻め口が破られると、鎌倉が最期の時を迎えたことを悟り、部下とともに潔く自害して果てた。

太平記」には、基時が鎌倉陥落を前に嫡男・仲時の非業の死を聞かされて詠じた辞世の句が紹介されている。

去程に普恩寺前相模入道信忍(北条基時)も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。
諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待てしばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん。年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。

年来続けてきた和歌の嗜みを忘れず、その心の愁緒を歌に込めた基時に、人々は涙を流し、讃えたとある。享年48。北条一門として京でつとめを果たした基時は、無骨一辺倒の鎌倉武士ではなかったんじゃな。

なお、仲時の一子、松寿は後の北条友時。友時は六波羅陥落、鎌倉幕府滅亡から6年後の延元4年(1339)、北条与党の大将として伊豆国仁科城で兵を挙げている。そしてワシの子・亀寿丸(時行)と同じく、足利に抵抗するが、捕らえられて鎌倉竜ノ口で斬られてしまうのじゃた。

帝と院を守護奉り散った仲時。北条の都を守って戦った基時。父と祖父、そして北条の無念を晴らすべく奔走した友時。死出の山辺の旅の道を越え、3人で浮世話を語りあったことじゃろう。

涙を誘うのう。