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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条宗時は源頼朝旗揚げのキーマンだった?

とくに予定のないシルバーウィーク。あまりの暇さにむかしの大河ドラマでもみようかと思い、NHKオンデマンドで「草燃える」をチョイス。石坂浩二さんの源頼朝公、岩下志麻さんの北条政子殿、マツケンさんの北条義時公とか、涙ものの懐かしさだったんじゃったか、きょうは北条宗時さんについて。

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北条宗時の出自 

北条宗時さんは北条時政公の嫡男で、政子殿や義時公の兄君。いちおう、長子とされているが北条三郎と呼ばれており、一郎二郎がいて夭折したのか、それについてはよくわからない。

細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府 (講談社選書メチエ)』によれば、宗時さんの「宗」は、時政公の後妻である牧の方の実家・牧氏の通字からとられたのではないかと推測している。牧氏は平忠盛の後妻、つまり清盛の継母で源頼朝公の命を助けた池禅尼の実家である。

牧の方の父・宗親は、平頼盛の所領である駿河国大岡牧の代官をつとめており、時政公は、牧宗親を嫡子・宗時の烏帽子親とすることにより、伊豆における勢力確保をねらっていたのではないかというのじゃ。そして、ゆくゆくは、牧の方を宗時さんの嫁にしようと目論んでいたが、宗時さんが石橋山の合戦で討死してしまったため、自分の後妻に迎えたのではないかと。

ちなみに、細川重男さんは、義時公の「義」は三浦氏からもらったのではないかとも推測しているが、これは時政公が北条氏が伊東氏の勢力にのみこまれぬよう、三浦氏、牧氏との協調関係を築こうとしていたということらしい。

石橋山の合戦で討死

それはともかく宗時さんのことじゃ。「吾妻鏡」によると、宗時さんは石橋山の合戦の後、時政公と義時公とは別行動をとり、伊東祐親の軍に襲われ、小平井の名主・紀六久重に討ち取られたとある

治承4年8月24日
北條殿・同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと。 

北条宗時公墓

北条宗時公墓(手前が北条宗時公供養塔、奥は工藤茂光公供養塔、Wikiより)

宗時さんのお墓は伊豆の函南町にある。ともに討死した工藤茂光の墓もとなりにあるという。ちなみに、工藤茂光は伊豆の豪族の一人で、伊豆大島を中心に大暴れした源為朝を討伐したことでも知られている。

建仁2年(1202)6月1日、北条時政公は伊国北条に下向。「吾妻鏡」によると、その折、夢のお告げがあり、この地に宗時さんのお墓を建てている。

建仁2年(1202)6月1日 遠州伊豆の国北條に下向せしめ給う。夢想の告げ有るに依って、亡息北條の三郎宗時が菩提を訪い給わんが為なり。彼の墳墓堂は当国桑原郷に在るが故なり。

北条宗時は頼朝旗揚げのキーマンだった?

草燃える」では中山仁さんが好演。平家の先行きが長くないことを感じとり、東国で自分たち武家の秩序と権力を守ってくれる代表者として、蛭ケ小島の流人・源頼朝を担ぐことを仲間たちと画策する。そして父の時政公が京都大番役で留守の間に、妹の政子殿と頼朝公の愛のキューピッド役をはたしている。

じっさいの宗時さんがどんな人物でどんな役割を果たしていたのかはあまり伝わってない。しかし、頼朝公旗揚げのキーマンが宗時さんだったとしてもなんら不思議はないし、頼朝公からの信頼は、父・時政公以上に厚かったかもしれない。

時政公に源氏に味方するように焚きつけたのは宗時さんだったのではないだろうか。父が不在の間にちゃっちゃと画を描いていたのかもしれぬ(想像じゃよ、もちろん)。

それだけに、もし宗時さんが存命であったならば、北条氏、鎌倉幕府はその後、どうなっていたじゃろうか。江間小四郎こと義時公、そして北条得宗家の運命もまた、変わっていたじゃろうな。