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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

崇徳天皇(上皇)は、なぜ怨霊になってしまわれたのか

菅原道真、平将門と並ぶ日本3大怨霊といわれており、その中でも最強とされている崇徳天皇(上皇)。その崇徳天皇を祀る御廟が、祇園のど真ん中、東山通から一筋西側の万寿小路に面した、ちょうど祇園歌舞錬場の裏側あたりにひっそりと建っている。さながらそこだけが異空間のように感じるぞ。

崇徳天皇を祀る御廟

崇徳天皇を祀る御廟

崇徳天皇の悲劇的な出自

崇徳天皇は出自からして悲劇的じゃった。いちおう鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)ということになっておるが、じつは崇徳天皇が鳥羽天皇の祖父・白河上皇と待賢門院璋子の子であったことは、当時から公然の秘密であったらしい。上皇が天皇の皇后を懐妊させたというのじゃから、これは皇室の歴史上、とんでもないスキャンダル! 鳥羽天皇は崇徳天皇を「あれは叔父子よ」と嘯いて、崇徳天皇を遠ざけていたというし、おそらくこれは事実なんじゃろう。

鳥羽天皇は待賢門院璋子との間に五男二女を儲けているが、白河院が没すると側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛するようになる。そして得子が産んだ第八皇子・体仁親王(近衛天皇)を立太子とするために、崇徳天皇は譲位を強要されてしまう。しかも譲位の宣命には、体仁親王が「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されており、崇徳上皇は天皇の兄ということにされてしまうのじゃよ。これでは院政はしけず、崇徳院は新院と呼ばれるものの、もはや名ばかりの存在とされ、これはも明らかに鳥羽院による意趣返しといえる。

ただ、その近衛天皇が若くして崩御すると、皇位継承はドロドロの様相を呈していく。本来であれば、崇徳院の第一皇子である重仁親王が嫡流でもあり、みなが立太子となるじゃろうと思っていた。しきし、このとき、近衛天皇の死は崇徳上皇と藤原頼長の呪詛によるものとの噂が流れる。これに激怒した鳥羽法皇は美福門院、藤原忠通、信西と計って、守仁親王(二条天皇)の即位までの中継ぎとして、その父であり、鳥羽院と待賢門院璋子の第四皇子・雅仁親王を即位させてしまう。後に源頼朝公をして「日本一の大天狗」といわしめた後白河天皇のじゃな。すでに29歳にもなり、立太子もしてない雅仁親王が即位するのは、あまりにも異例のことだった。

自らの皇統を否定された崇徳院は後白河天皇を「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評し、その怒りと不満は爆発寸前。そこに、藤原忠実・頼長と藤原忠通による摂関家の氏の長者争いと、源氏・平家という武家の内訌も絡んで、都は後白河天皇方と崇徳上皇方で、いよいよ不穏になっていく。

そして保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れる。崇徳院は、それまでの遺恨を捨て、鳥羽院の見舞いに訪れるが、後白河天皇方は対面を拒絶。しかも検非違使を招集して警戒に当たらせるなど、軍事的にも崇徳院を挑発した。そして7月2日申の刻(午後4時頃)、鳥羽院は崩御するが、崇徳院は初七日にも立ち会わせておらえず、面目を丸つぶれにされてしまう。いくら対立したとはいえ、鳥羽院とはいちおう親子であり、後白河天皇も兄弟である。この仕打ちは、崇徳院のプライドを痛く傷つけたことじゃろう。こうして保元の乱は起こるべくして起こったというわけじゃな。

保元の乱

保元の乱

そして怨霊になった崇徳院

保元の乱についての経緯はここでは割愛するとして、敗れて讃岐国に流刑となった崇徳院のその後のことじゃ。

浜ちどり 跡はみやこにかよへども 身は松山にねをのみぞなく

「保元物語」によると、崇徳院は雅な都での生活と異なり、質素で草深い田舎住まいの中で仏教に深く帰依し、自らの血を用いて、法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経の五部大乗経を写経した。「ひとへに後世の御ため」と、3年の月日を費やし、心を込めて写経されたのじゃろう。そして、完成した写経をこんな片田舎に置いておくのは偲びないと思い、せめて京の都の近くに置いて欲しいと願い出る。崇徳院にはここに和解の気持ちもたぶんにあったことじゃろう。

しかし、これを聞いた信西は「呪詛が込められているかもしれない」と受け取りを拒絶。ほどなくして都から送り返されてきた文箱には、なんとビリビリに破られた崇徳院の血写経が納められていた。

なんとも酷いことをするのう……

「彼の科(とが)を救はんと思ふ莫太の行業を、併三悪道に投こみ、其力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」とて、御舌のさきをくい切って、流る血を以て、大乗経の奥に御誓状を書き付けらる。

文箱をあけた崇徳院は、怒りのあまり舌を噛み切り、日本国への呪詛を誓う。「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、以後は爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったという。そして生霊として平治の乱を引き起こし、長寛2年(1164)8月26日、深いお恨みを残して憤死したとされている(暗殺説もあるらしい)。

……ここまで酷いことになれば、そりゃあ、怨霊にもなるわな。しかも、そのへんの武人ではなく、恐れ多くも万世一系の天子様じゃぞ。もっとも、ワシも後醍醐帝を隠岐にお流ししたから言えた義理ではないのじゃが、でも、この扱いはあまりにも酷すぎる。

そんなわけで崇徳院は怨霊となって、都に災いをもたらす。まずは二条天皇が23歳の若さで崩御。その後も、建春門院(平滋子)、二条天皇の中宮と後白河院の近しい人が相次いで亡くなり、きわめつけは13歳の六条天皇までもが病死してしまう。しかも都では、延暦寺の強訴、太郎焼亡・次郎焼亡の大火、鹿ケ谷の陰謀などの事件が続発。こうした事態に後白河院は、保元の宣命を取り消し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、さらには鴨川の東、保元の乱の戦場となった春日河原に粟田宮を建立し、崇徳院の怨霊鎮魂につとめた。

その御廟が紆余曲折あって、現在のこの地の「崇徳天皇御廟」に伝わっているというわけじゃ。もっとも、この御廟は、崇徳院の寵妃・阿波内侍が自宅に建立したものという説もあるそうじゃが、いずれにせよ皇室はそれ以後、崇徳院の鎮魂につとめていくことになる。

事実、明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼にあたり、勅使を讃岐に遣わし、白峯神宮を創建して崇徳院の御霊を京都へ帰還させているし、昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964)、やはり香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行っている。

瀬を早み 岩にせかるる滝川の……

崇徳天皇を祀る御廟

 百人一首にもある崇徳院の有名な歌。 

瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

もちろん、この歌は保元の乱よりずっと前に詠まれた恋の歌じゃが、どうしても父・鳥羽院との悲劇的な関係と結びつけて詠みたくなってしまうのじゃよ……そういえば、大河ドラマ「平清盛」では、この歌は崇徳院が父の鳥羽院との和解を念じて詠んだ歌と紹介されていたような記憶がある。

この御廟に手を合わせておると、供物の中に「吉うた」というお茶屋さんの文字が目に飛び込んできた。吉うたの女将さんと崇徳院の不思議な関係についても、どこかで読んだ気がする。たしか崇徳院は女将に「 死すとも恨みを残してはならぬぞ」と告げたという。女将が言うには崇徳院は「 もう怨霊はとれてはるんですわ。いい神さんになってはるから 」 とのこと。うん、わしもそう思うぞ。

じつは今回、わしが六波羅あたりをうろうろしておったのは、崇徳天皇御廟を訪れるのがメインの目的だったんじゃ。というのも、たまたま、ほんとうにたまたま電子書籍で竹田恒泰さんの『怨霊になった天皇』を衝動買いしてのう……そんな矢先に、とつぜん宿泊での京都出張となり、たまたまとった宿からほど近くに、この御廟があったというわけなんじゃよ。 なんとなく、呼ばれたのかな?的な感じもしないでもない。ということで、御廟に念入りに合掌。 

安井金刀比羅宮

安井金刀比羅宮

ちなみに、この近くには、崇徳院と源頼政を祀った安井金刀比羅宮もある。ここは悪縁を断ち切り、良縁を結ぶとあるが……ここの絵馬に書かれた女性たちの願がなんとも恐ろしい……

「**くんと**が別れてますように」
「息子が交際相手の女と早く別れますように」
「**が早くクビになりますように」
「夫の不倫相手の**が事故か病気で早く死にますように」

「苦しんで死ね」「流産しろ」とか、もう恐ろしいのなんのって、まちがいなく病んでるし。写真撮ろうかと思ったけど、あまりにガクブルで……こっちのほうが怨霊よりよっぽどこわいわ!