所用で江ノ電の和田塚駅で降りたから、和田塚に立ち寄ることにした。ということで、今日は和田義盛についてじゃ。
和田塚は駅から由比ガ浜に向かって歩いてすぐ。かつて鎌倉で激烈な市街戦に敗れ、壮絶な死を遂げた和田義盛一族を供養するエリアじゃ。
もともとこのあたりは古墳で、塚があったんじゃが、明治の中頃、道路開発のときに、おびただしい数の人骨が出てきたんじゃよ。で、これは和田合戦の戦死者のものだろうということになって、それ以後、「和田塚」と呼ばれるようになったというわけ。
なんでも、武者の霊が出るとかで、北条高時腹切りやぐらと同様、鎌倉の心霊スポットという人もいて、夜な夜なきもだめしにくる不心得者がいるらしい。周りは住宅街だし、節度をもった行動をとってほしいものじゃ。
和田義盛の死は、これはもう明らかに北条義時公の策略によるものじゃ。源頼朝公以来の功臣で、侍所別当をつとめる和田義盛は、北条が幕府を牛耳るうえで、どうしても消しておきたい存在じゃった。
和田義盛は、三浦氏の一族で、典型的な鎌倉武士。三浦義村のような狡猾さはなく、挑発するのは簡単だったようじゃ。
和田義盛は老年になり、これまでの勲功により「一生の余執」として上総国司の職を望んだ。しかし、実朝公はよしとしたのじゃが、尼御台様が、頼朝公からの慣例に反するとして、これを却下。このあたりから、北条との関係がギスギスしだしたんじゃな。
あるとき、泉親衡が源頼家公の子・千寿をようして謀反の陰謀があることがわかった。そこには和田義盛の子である義直と義重、甥の胤長が与しているとの情報もあり、義時公はすぐさま3人を捕縛した。義盛はそのとき、上総に出張っていたが、急を聞いてもどってきて、3人の赦免を願い出る。
義盛の長年の功に免じて、とりあえず義直と義重は許されたが、胤長は事件の主犯格であると、助命嘆願にきた一族の面前で縛りあげられ、陸奥へ流罪となった。もちろんこの処置を決めたのは義時公。義盛は深く義時公を恨んだようじゃ。
さらに、罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが通常で、将軍実朝公もこれは認めておったのじゃが、義時公は和田から胤長の屋敷を取り上げ、義盛を挑発する。
案の定、これに義盛は怒り心頭! かくして建暦3年(1232)5月2日、義時公の計画どおり、和田一族は北条打倒の兵を挙げたというわけじゃ。
屈辱に堪えかねた和田義盛が挙兵すると、将軍実朝は義盛に使いを出した。それに対し、義盛ははこう答えたという。
上(実朝)においては、全く恨みを存ぜず。相州(義時)が所為傍若無人の間、子細を尋ね承らんがために発向せんとするのみ
「これは謀反ではなく、義時に詳細を尋ねたいだけだ」ということらしい。しかし、そうこうしているうちに、義盛の屋敷に軍勢が集まっていることを大江広元が義時公に注進する。そして和田義盛挙兵の報せは、なんと、一族として義盛に同心していたはずの三浦義村から義時公にもたらされる。土壇場で裏切った三浦義村は、なんとも食えないやつで、のちに「三浦の犬は友を食らう」と揶揄されることになるのじゃが、それはまあ、ここでは詳しくは触れぬことにしよう。
義時公は「待ってました」とばかり、実朝公と御台様、そして尼将軍こと北条政子さまを鶴岡八幡宮に逃がし、和田の軍勢を迎え撃つ。将軍を義盛に担がれてしまえば、どちらが幕府軍でどちらが反乱軍かわからなくなる。このあたり、義時公は用意周到じゃ。猪突猛進の義盛にはこうした配慮は行き届かないじゃろう。このときの義時公の落ち着きぶり、「吾妻鏡」にはこうある。
時に相州囲碁会有り。この事を聞くと雖も、敢えて以て驚動の気無し。心静かみ目算を加えるの後座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束し幕府に参り給う。
とはいえ、和田義盛は猛将であり、横山党の援軍もあり、幕府軍はこの合戦にかなり苦戦する。しかし多勢に無勢、和田軍の兵威は次第に衰えていく。
凡そ義盛ただに大威を播すのみならず、その士率一を以て千に当たる。天地震怒して相戦う。今日暮れ終夜に及び、星を見るに未だやまず。匠作(北条泰時)全く彼の武勇を怖畏せず。且つは身命を棄て、且つは健士を勧め調え禦ぐの間、暁更に臨み、義盛漸く兵尽き箭窮まる。
そして翌3日夕刻に義重が討死にすると、義盛は「今に於て者、合戰に勵むも無益」と悲嘆号泣しているところを討ちとられてしまう。享年67。
和田義盛公は弓の名手でもあり、武勇においては御家人の尊敬を受ける人物だったので、初代侍所別当にも任命された。じゃが、いかんせん単純で愚直な性格を義時公に利用され、あっさりと滅ぼされてしまったわけじゃ。
後世にも福島正則のように、こういう武将は数多く出てくるが、不幸な割には愛されキャラであることが多いようじゃな。じゃが、所詮は天下を納めていく器ではないし、官僚として役立つ人物でもない。三浦義村のような「友を食らう」ほどの狡猾さもないわけで、ようするに時代に翻弄され、葬られた鎌倉の古武士といったところじゃろうか。
かくして、北条は梶原景時、比企能員、畠山重忠ら有力御家人に続いて和田義盛も首尾よく葬ることに成功した。義時公はちゃっかり侍所別当も兼任することとなり、鎌倉での地位はいよいよ盤石なものとした。なお、和田合戦のきっかけとなった泉親衡じゃがその後はトンズラして行方不明、関与が疑われた者はみんな無罪放免となっている。こんなわけじゃから、事件そのものが義時公によるでっちあげだったのでは?という噂もある。義時公、わが祖ながら、おそろしや……
と、和田塚にご供養の手を合わせたあとは、わが愛犬を連れて由比ガ浜へ。ここもまた、和田義盛と横山党が幕府軍を相手に奮戦した場所じゃ。そう思うと、のんびり散歩してるのもいかがかと思うが……合掌