今日はちょうど材木座に行くついでがあったので、愛犬をつれて光明寺に行ってきた。光明寺は鎌倉幕府・第4代執権の北条経時公を開基として、然阿良忠上人が開山した浄土宗の寺院じゃ。
光明寺は鎌倉のメインの観光コースからははずれていることもあって観光客は少ない。じゃが、立派な山門のある大きなお寺じゃ。境内には湘南獣医師会による動物霊堂もある。
本堂の裏手の天照山への山道を少し登ると、鎌倉の海が一望できてなかなかの好風景。展望台の近くには歴代住職の御廟所があって、そこには北条経時公の墓もある。
ということで、今回は北条経時公について紹介する。
祖父・泰時から薫陶を受けた弥四郎経時
北条経時公は北条時氏公の長子で時頼公の兄、泰時公の嫡孫にあたる。幼名は薬上で、薬上菩薩が語源と思われる。母は賢母で知られる松下禅尼(安達景盛の娘)。7歳のときに父・時氏公が28歳の若さで急逝すると、経時公は北条氏嫡流としての期待を一身に集め、泰時公の薫陶を受ける。
11歳のとき、摂家将軍・九条頼経公を烏帽子親として元服。「経」の字を拝領して「弥四郎経時」を名乗る。幼くして宇都宮泰綱の娘と婚約し、若狭守護、小侍所別当、評定衆を歴任。泰時公の後継としての道を歩み始めるのじゃ。
「吾妻鏡」によると、寛文2年(1241)11月25日、泰時公が自邸でお食事会を開いととき、若い経時公と金沢実時公を呼びよせ、こう言い含めたという。
「文を好み事を為し、 武家の政道を扶くべし。且つは陸奥掃部の助(北条実時)に相談せらるべし。凡そ両人相互に水魚の思いを成さるべきの由」
自分亡き後の鎌倉をこのふたりに託そうという思いだったんじゃろう。
じゃが、その4日後、若宮大路の遊女屋でたむろしていた三浦氏と小山氏が些細なことから喧嘩となり、「すわ合戦か!」という騒動が起こる。泰時公はその対応に苦慮するのじゃが、このとき、経時公は縁戚である三浦氏に家人を加勢させてしまうのじゃ。いっぽう、弟の時頼公は静観しており、泰時公は経時公に謹慎を命じ、時頼公を大いに褒めたという。
「各々将来御後見の器なり。諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。親衛(経時)の所為太だ軽骨なり。暫く前に来るべからず。武衛(時頼)の斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」
蒲柳の質でおとなしい印象の経時公じゃが、思いの外、熱い漢だったのかもしれぬな。
将軍・九条頼経を更迭し、政権基盤の安定を図る
仁治3年(1242)、泰時公の死により、晴れて経時公は執権となる。しかし、19歳という若さということもあり、その政権基盤はかなり不安定であったようじゃ。事実、泰時公の死の前後、名越流北条氏や三浦氏には不穏な動きがあり、鎌倉で合戦が起こるという風聞が流れたらしい。
そして将軍・九条頼経公と対峙することになる。傀儡といわれてきた頼経公も長く鎌倉にいればそれなりの影響力をもつようになる。名越朝時ら反執権政治勢力も接近し、関東申次をつとめる父・九条道家も幕政に介入してくる。三浦氏、千葉氏なども頼経公の側近くに集まり、やがて将軍派閥を形成しはじめた。
経時公はこうした動きに果断に対処した。まずは評定制度と訴訟手続きを改革に着手した。もともと合議制の評定制度は源頼家公のときにできたもので、将軍は評定衆による決定事書を閲覧し、関東下知状を発行する手はずとなっていた。それを経時公は、将軍の事書閲覧を省略し、将軍が裁判に関与する機会を完全に奪ってしまった。
さらに頼経公に迫って、将軍職をわずか6歳の息子・頼嗣公に強引に譲らせることに成功する。そして16歳の異母妹・檜皮姫を頼嗣公の正室とし、将軍家との外戚関係をつくって、その権力基盤を固めようとしたのじゃ。
もっとも、頼経は、その後も鎌倉に居座り、大御所として君臨し、けっきょく京都に強制送還できたのは時頼公の代になってからになるわけじゃがな。
「深秘の御沙汰」により、執権職は経時から時頼へ
執権という職務はなかなかに激務である。そのため、経時公はしばしば体調を崩して周囲をはらはらさせていたが、寛元4年(1246)3月には、いよいよ病状が悪化する。
そこで経時公の屋敷に一門重臣たちが密かに集まり、「深秘の御沙汰」という秘密会合が行われ、そこで時頼公の執権就任が決定されたのじゃ。
武州の御方に於いて深秘の御沙汰等有りと。その後執権を舎弟大夫将監時頼朝臣に譲り奉らる。これ存命その恃み無きの上、両息未だ幼稚の間、始終の牢籠を止めんが為、上の御計たるべきの由、真実御意より趣くと。左親衛即ち領状を申さると。
経時公には6歳の隆政、3歳の頼助というふたりの息子がいた。じゃが、後継とするにはあまりにも幼ない。そこで経時公は時頼公に後事を託したと伝えられている。
ちなみにその後、隆政も頼助も仏門に入り、経時公の直系は絶える。かくして得宗家は時頼公の血筋に受け継がれていったことから、この執権交代劇について陰謀めいた説を唱える識者もおる。
そもそも「吾妻鏡」は時頼公の孫、わが父・貞時公の時代に編纂されたものだから、そういう見方もあるかもしれん。とはいえ、この件については、わしの立場はなんともいいにくいけどな。
ちなみに、NHK大河ドラマ「北条時宗」では、渡辺謙さん演じる時頼公が、兄の経時公に密かに呼び出され、自分の死因は何者かに盛られた毒のせいだと語る場面がある。若くして亡くなった頼嗣室・檜皮姫も一服盛られたという。犯人の名は明かされなかったが、おそらく前将軍頼経や名越流北条氏という含みだろう。そして、そんな時頼公もまた何者かに毒を盛られて殺されてしまう。もちろんこれはドラマだが、まったくの創作とは言い切れない気もする。
寛元4年4月、北条経時公は出家して安楽と号し、閏4月1日に没。享年23歳。この若さがなんとも悲しいではないか。名執権の誉れ高い泰時公と時頼公の狭間で、経時公はメジャーではない。じゃが、幕府にとって、北条得宗家にとって難しい時期に経時公が果たした役割は大きなものであったと、わしは思う。
なお、そんな経時公と檜皮姫、そして時頼公についてもっと知りたいというかたは、河村恵理さんの『鎌倉秘恋 北条恋ヶ谷』がおすすめ。
「頼朝亡き後、後ろ盾をなくした北条家の執権・経時は16歳の妹・檜皮姫を7歳の将軍に嫁がせた。しかし、その妹が本当に愛していたのは…!? 堕ちたのは恋の谷。鎌倉を舞台に、政敵と戦う男たちと、彼らを愛した女たちの物語」
よろしければ、ご一読を。
光明寺は経時公亡き後も歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となる。後土御門天皇からは『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となっている。
ちなみに光明寺の近くには和賀江島という港の跡がある。往時はおびただしい量の物資がここに陸揚げされていた。材木座は、このあたりに建築木材を集積したことからからついた地名である。