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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

一条戻橋…いづくにも 帰るさまのみ 渡ればや 戻り橋とは 人のいふらん

京都・一条戻橋。古来から「あの世」と「この世」をつなぐ橋といわれておる。晴明神社にはレプリカがあり、かつての様子を偲ぶことができるが、せっかくなので現地にも立ち寄ってみることにした。ちなみに、この写真にある「一條」「戻橋」と彫られた親柱は、橋の架け替え工事のときに、こちらに移してきたもので、往時の姿を再建したんだそうじゃ。となりにいるのはもちろん、式神さんじゃ。

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死者も蘇る?「一条戻橋」の由来

一条戻橋は、平安京が造営された794年(延暦13年)、一条大路に堀川を渡る橋として架けられた由緒ある橋じゃ。当時、一条大路は平安京の北限。この橋を渡るとき、古の都人たちは、洛中から洛外へと出て行く一抹の寂しさを感じていたのかもしれぬな。

「戻橋」という名の由来は、延喜18(918)、醍醐天皇文章博士であった三好清行が亡くなったときの伝承に由来する。父・清行の死を聞いた熊野の僧侶・浄蔵が京都に急ぎ帰ってくると、ちょうど葬列がこの橋を渡ろうとしていた。浄蔵は棺にすがって嘆き悲しみ、せめて父に一目逢いたいという一心から祈願したところ、なんと清行は一時的に蘇生して別れを惜しむことができたという。この逸話から人々はこの橋を「戻橋」とよぶようになったというんじゃ。

中世社会では、橋や辻はあの世とこの世、魔界と現世の境界と考えられていた。特に京の都は魑魅魍魎、百鬼夜行が夜な夜な跋扈する魔都で、一条戻橋は鬼や化け物が出入りするところとして、都人はたいそう畏れていたんじゃよ。「太平記」にはこんな話もある。源頼光四天王の一人・渡辺綱がある夜、ここを通りかかるとこの橋の東詰で美しい女性から「夜が怖いので家まで送ってほしい」と頼まれた。そこで綱は女を乗せて馬を走らせたが、女はとつぜん鬼に姿を変えて「我の住処は愛宕山だ」と、綱の髻を掴んで乾の方角に飛んで行く。そこで綱は女の腕を、源氏重代の「髭切の太刀」で切り落としたというんじゃ。

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こちらは橋の西詰、堀川通側からみた現在の一条戻橋。 現在の橋は平成7年に架け替えられたもので、堀川通はクルマがガンガン通っている。あの世とこの世の境界という感じはあんまりしないけど、いまでも夜な夜な鬼たちが出入りして、人の心に悪さをしては事件を引き起こしているのかめしれぬ。人の心には鬼が棲むというではないか。

安倍晴明式神さんが佇む一条戻橋

一条戻橋は晴明神社のほど近く、かつての晴明の屋敷の近くにある。夢枕獏さんの小説では、安倍晴明のパートナーの源博雅がこの橋を通って晴明邸を訪れるのは物語の定番じゃが、じつは一条戻橋は、安倍晴明の父・保名が殺害された場所でもあるんじゃよ。

安部保名は芦屋道満の弟・石川悪右衛門に追われた狐を助け、その化身の女と結ばれたが、その間に生まれたのが安部晴明という話もある。晴明は道満に父が殺されたとき、バラバラになった身体をつなぎあわせ、秘術のかぎりをつくして蘇生させたという伝承があるんじゃ。この話は歌舞伎の題材にもなっているが、晴明と道満の因縁はこんなところからはじまっていたんじゃな。

中世の闇は現代社会とはちがってじつに長く深い。人々が陰陽師の占術や呪術に頼ったことも、むべなるかなである。晴明は陰陽道の大家として。十二神将とよばれる式神を自在に操っていたが、妻が式神の顔が怖いというので、ふだんは式神をこの橋に封じて、必要に応じて召喚していたという。

ところで、中世には「橋占(はしうら)」というのが流行っていたことはご存知か? 橋占とは、陰陽師式神を使って橋を渡る人の吉凶を占うことで、記録によると、あの悪左府藤原頼長も実姉の入内が叶うかどうかを占ったというし、高倉天皇の中宮建礼門院の出産にあたり、母の二位殿も橋占をしている(『源平盛衰記』)。二位殿の橋占では、12人の童子が出てきて、生まれた皇子(安徳天皇)が即位すること、しかしほどなく壇ノ浦に沈む予言する歌をうたいながら、この橋を渡って行ったとある。もちろん、この12人の童子とは、晴明の式神十二神将である。

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現在の堀川畔は遊歩道として整備されていて、ちょっとしたお散歩コースになっていた。晴明神社を参拝するときには式神さんに思いをはせ、ぷらぷらしてみるのもよいじゃろう。おすすめじゃよ。

一条戻橋は「いくはかえるの橋」

このほかにも、戻橋にはさまざまな奇怪な伝承が「今昔物語」などに残されているが、近世になると、豊臣秀吉はここで北条氏政・氏照(五条橋の説あり)、島津歳久、千利休を晒し首にしている。また禁教令に従わないキリスト教徒の耳たぶを削って見せしめにするなど、戻橋は血なまぐさい現場として登場してくる。どうやら晩年の秀吉の心には、鬼が棲みついたようじゃ。

また、江戸時代には、徳川和子入内のとき、幕府が「戻橋」という名を嫌って「万年橋」に改名しようとしたといわれている。もっともこれは京都の人たちには受け入れられなかったらしい(ただし、秀吉や家康の時代の戻橋は中立売通にあったという研究もある)。

その後は、罪人たちが市中引き回しの末、この橋につれてこられ、来世ではまっとうな人間となって戻ってくるよう誓いを立ててから、粟田口や西土手の刑場へ連行されていく慣わしがあったとも聞く。

「いくはかえるのは橋」とよばれた一条戻橋は、いろいろな逸話がある歴史の現場なんじゃな。

いづくにも 帰るさまのみ 渡ればや 戻り橋とは 人のいふらん

和泉式部はそう詠んだが、いまなお縁談を控えた女性は実家に出戻ることのないよう、この橋を渡らないようにしているという。また霊柩車は、死者がこの世に未練を残すことなく、しっかり成仏するよう、この橋を避けるのが普通だそうじゃ。反対に戦時中は戦地に赴く兵隊さんたちは生きて無事に戻って来ることを願い、この橋を渡ったとか。

一条通からみた戻橋を振り返ってみた。向こう側が「あの世」で、こっちが「この世」か? そんなことを考えていたら、渡るのをちょっと躊躇してしまったよ。

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