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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

日蓮の佐渡法難と阿仏房・千日尼のこと

佐渡の両津港のほど近く、金色に輝く巨大な日蓮銅像があった。ということで、今日は日蓮と過酷な流刑生活を支えた阿仏房と千日尼についてじゃ。

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文永8年9月12日(1272年頃)の龍口の法難。日蓮は「真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊」と諸宗を攻撃し、幕政にも批判的な態度をとったとの理由から、平頼綱の命によって捕縛され、龍ノ口刑場で処刑されることとなった。じゃが、斬首になる直前、とつぜん江の島から光が飛び来たり、役人が恐れおののいて刑が執行不能となったという。かくして日蓮の処刑は中止となり、佐渡へ遠流になったというわけじゃ。

日蓮佐渡での流刑生活は2年余り。過酷な北国の地で、日蓮は『開目抄』『観心本尊抄』などを著しているが、その生活は窮乏をきわめたと聞いておる。日蓮ははじめ国仲平野のほぼ中央、現在は根本寺がある塚原の地に謫居したが、このあたりは当時のしたい置き場で、寒風吹きすさぶあばら家をじゃったらしい。

当時のことが『国府尼御前御書』に、こう記されている。

身命をつぐべきかんてもなし、形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき。

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そんな日蓮をを助けたのが阿仏房日得とその妻千日。阿仏房は俗称・遠藤左衛門尉為盛。承久3年、順徳上皇佐渡配流に供奉した北面の武士じゃ。妻の千日は、順徳上皇が京都にお戻りになることを祈願して真野の入江に千日の水垢離をとったことから、上皇から謝意を込めてその名を与えられたという女性じゃ。

当初、阿仏房は念仏の信者じゃたっが、日蓮に教化帰伏。北國一の法華信者として妻の千日尼とともに日蓮の流人生活をささえる。日蓮もまた後年、「唯慈母の佐渡の国に生まれ代わりてあるか」と、ふたりの献身と徳を称えている。

日蓮佐渡の国へ流されしかば かの国の守護等は国主の御計らいに随いて日蓮を仇む万民はその命に従う(中略)。地頭念仏者等日蓮が庵室に昼夜立ち添いて通う人もあるをまどおわさんとせしめに、阿仏房に櫃をおわせ夜中に度度御わたりありしこといつの世にかわすらむ、唯慈母の佐渡の国に生まれ代わりてあか

やがて日蓮は罪を許される。『立正安国論』で二月騒動(「自界叛逆」)や蒙古襲来(「他国侵逼」)を予言していたことが的中したことから、一門がみな反対する中、北条時宗公が赦免を決断したそうじゃ。

佐渡を去る日のことを、日蓮は「さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし」と振り返っている。日蓮にとって佐渡での流刑生活は立教開宗以来培ってきた教義をさらに深める経験となったことじゃろう。また阿仏房も高齢をおして、佐渡から身延山を2度も訪ねているというから、この師弟愛は生半可なものではないようじゃな。

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阿仏房と千日尼の旧宅・阿仏寺を前身とするお寺が、日蓮宗佐渡三本山のひとつ、蓮華王山妙宣寺。五重塔新潟県内唯一のもので国の重要文化財に指定されている。また、境内には日野資朝墓所もあり、直江兼続が奉納したというやりの穂先も伝えられておる。日野資朝についても、こんど、機会をあらためて書こうと思う。

なお、阿仏房と千日尼については、創価学会の公式サイトに動画の紹介があるのでご参考まで。

ということで、南妙法蓮華経

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