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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

井伊氏のルーツをたずねて、井伊谷城と龍潭寺に行ってきたぞ

正月に井伊谷に行ってきた件をもう少々。井伊氏といえば彦根藩のイメージじゃが、ルーツはもちろんここ、遠州井伊谷。東京から新東名で浜松いなさICまであっという間。本来ならじっくり宿泊して回りたいところじゃが、今回は日帰りでサクッと回ってきた。

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旅先では、とりあえず高いところへに行ってしまうのがわしの流儀。ということで、まずは井伊谷城へ。麓の駐車場にクルマを停めて、ここからとぼとぼと登っていく。大河ドラマの幟や案内板も設置され、手すり完備の舗装された登山道。こちらが大手口らしい。標高は110mほどじゃし、わりとすんなり登れたぞ。

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遠くに浜名湖がみえる。遠州井伊谷は清水豊かな土地柄で、古来から「井の国」とよばれていた。古墳時代の遺跡も多く、かつては「井の国の大王」が住んでいたともいわれているそうじゃ。

井伊谷が歴史の舞台に躍り出るのは南北朝時代。井伊氏は後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じて、南朝の臣として、この井伊谷の地で足利尊氏軍と戦っている。とはいえ、井伊谷城はさほど堅牢な山城ではない。いざ戦となれば三岳城を詰めの城とすることを前提に、ここは麓の居館とともに平時のときに使われていたのじゃろう。

夕暮れは湊もそことしらすげの入海かけてかすむ松原

はるばると朝みつしおの湊舟こぎ出るかたは猶かすみつつ

井伊谷城跡に、こんもりとした一画があり、ここは御所の丸と呼ばれている。宗良親王がこの地で詠んだ歌が伝わっている。

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井伊家はこの地に600年もの歴史を刻む国人領主保元の乱では「井の八郎」が源義朝に従って出陣しており、鎌倉の鶴岡八幡宮の弓初めでは三番手の射手に「井伊介」の名がみられる。

江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』によれば、井伊氏のルーツは藤原北家良門の三男・利世から五代の孫・備中守共資が遠江介としてこの地に下向、その子・共保のときから代々、井伊谷に土着したとされる。この共保の出生については『井伊家伝記』に奇瑞譚が記されている。

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寛弘七年(1010)、正月元旦、井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、 御手洗の井のそばに生まれたばかりの赤子を見つけた。その容貌は端麗で晴れ晴れとした眼差しであり、神主は家に連れ帰って我が子のようにして育てた。たいへん聡明な子どもだったそうで、7歳になったときに備中守共資が養子としてもらいうけ、その後、娘婿に迎えて、共保と名乗らせたという。共保は大した器量人で、たちまち井伊谷一帯を従えたと…というものである。この井戸のかたわらには橘が自生していたことにちなみ、井伊家では橘を衣類の紋としているとのことじゃ。

また、延喜年間に天日槍命(あめのひほこのみこと)の後衛にあたる三宅好用が荘司として着任し、この井戸の傍に居を構え、それから3代目の井端谷篤茂の娘が共資に嫁し、共保を生んだという異説もある。ちなみに、三宅の家紋も橘だそうじゃ。

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こちらが龍潭寺の近くにある「共保公出生の井戸」。幕末、彦根藩主となった井伊直弼は御国入りのときに、この地を訪れている、

湧き出づる岩井の水のそこ清み曇りなき世の影ぞ見えつつ

井伊直弼の歌碑。埋れ木のまま一生を過ごすはずであった直弼はひょんなことから彦根藩主となる。やがて尊王攘夷を唱える輩の恨みをかいながら、日本をまがりなりにも開国へと導き、水戸脱藩浪士たちのテロリズムにより殺されてしまう。大老はこの先の自身の運命を感じとっていたのかもしれんな。

そもそも井伊家は勤皇の家柄。南北朝の騒乱では、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じて足利尊氏と戦っている。この件はまたあらためて書こうと思うが、井伊大老にしてみれば、時勢が見えないまま騒ぎ立てるだけの尊攘志士なんぞは、単なるチンピラにしかみえなかったであろうよ。

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「おんな城主 直虎」でも、おとわたちがこの山門をくぐる場面があった。じゃが、この山門は武田信玄の井伊谷侵攻のときに焼き払われ、後年、井伊直孝が寄進したものらしい。

龍潭寺はその縁起によれば、天平5年に行基が開創したとのこと。室町時代末期、井伊直平のときに黙宗瑞淵を迎えて禅寺となり、桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛の戒名をもとに寺号を龍潭寺にあらためた。井伊直政徳川四天王として出世するが、井伊家の菩提寺として彦根藩からも手厚い外護を受けている。

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湖国になじみのあるわしなんぞは、龍潭寺といえば近江佐和山麓にあるお寺をイメージする。じゃが、そちらは井伊直政彦根藩主となったときに分寺されたもの。どちらも井伊家の菩提寺じゃが、もちろん井伊谷の龍潭寺がルーツである。

本堂は左甚五郎作による鶯張りの廊下。「おんな城主 直虎」関係の展示や、釈迦三尊像宗良親王のご位牌などを拝みつつ、先へと進んでいく。

井伊家霊屋は井伊家1000年の歴史を祀る霊廟。廟内正面には家祖・共保、22代直盛、24代直政の木像が安置されており、左手には歴代のご位牌が並んでいる。井伊直虎や直弼の位牌もあるとのこと。なんとはなしに凛とした気持ちになり、手をあわせる。

なお、本堂裏の庭園は小堀遠州による作庭で国指定の名勝だそうじゃ。わし、お庭はさっぱりわからんので説明をパスして、先へと進んだ次第。

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本堂を出て、井伊家歴代の墓所へ。正面右に共保、左に直盛。大河ドラマの主要キャストは左側。奥から直盛室、次郎法師(直虎?)、直親、直親室、直政と並ぶ。右側にも井伊家歴代が並んでおり、直平、直満の供養塔もそこにあった。きちんと案内があるのでありがたかったが、大河人気か、つぎからつぎへと人が来るたため、長居はできず、遠巻きに確認し、退散する。

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なお、井伊直虎については、男だった、女だったと巷で騒がれておる。ただこれは厳密に言うと直虎の性別の問題というよりは、「次郎直虎」が直盛の娘の「次郎法師」だったのか、今川の息がかかった新野左馬助の甥、関口氏経の息子とされる「井伊次郎」だったのかという問題である。もちろん、この決着はまだついていないのじゃが、それはそれとしてこの地に来てみると、少なくとも「次郎法師」は存在したんじゃし、もう純粋にドラマとして楽しめばよいのではないか、という感じは強くなるな。NHKもいざとなれば、「おんな城主・次郎法師」にタイトルを変更しちゃえば、それで解決なのではないかと無責任にも思ったり。

なお、次郎法師と井伊直虎については、過日、こちらを書いたので、よろしければ読んでくだされ。

以下、無用のことながら、井伊谷に行った際には井伊谷城と龍潭寺はセットで訪れるべきスポットじゃと思うが、食事はやはり、さわやか の げんこつハンバーグがおすすめじゃな。浜松だし「鰻」という選択肢も捨てがたいが、龍潭寺からさわやか細江本店はクルマですぐじゃしな。わしは正月3日の開店時刻の11時に訪れたところ1時間待ちじゃった。クルマを停めるのも一苦労じゃったが、それでもここのハンバーグは絶品、待つだけのことはある。井伊谷城、龍潭寺、さわやかのげんこつハンバーグ。この組み合わせは「おんな城主 直虎」の聖地巡礼における最適解といえよう。

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