北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

血戦、烏頭坂。「島津の退き口」を訪ねて~島津豊久がドリフとして召喚された現場を特定してきた

こちら関ケ原からほど近くの烏頭坂。そう、あの島津の退き口で命捨てがまった島津豊久が、ドリフターズとして異世界へと漂流することになった場所じゃ。昨年の大晦日聖地巡礼してきたので、今回はそのときのことを書いておこう。

f:id:takatoki_hojo:20170122150723j:plain

なぜ、島津義弘関ケ原で動かなかったのか

慶長5年(1600)の関ケ原合戦の直前、島津義弘伏見城にいた。前年におきた薩摩本国の内乱(庄内の乱)の調停に、徳川家康が尽力してくれたことへの御礼言上のためじゃ。このとき、家康は上杉景勝征伐のために会津へ向かうことになっており、義弘は伏見城留守居を託されたという。

家康が会津へ向かうと、石田三成毛利輝元を大将に兵をあげた。このとき、義弘は上方の手勢を引き連れて伏見城へ馳せ参じるが、城将の鳥居元忠に「そんな話は聞いていない」と島津軍の入場を拒否されてしまう。

義弘の手勢は少なく、庄内の乱の事後処理で国許からの援兵は期待できない。西軍4万の軍勢の中で孤立した義弘は、三成の要請を受け入れて、西軍への参戦を決意する。そうした中で義弘のもとへ駆けつけたのが甥の島津豊久というわけじゃな。

こうした経緯での参陣ということもあり、また軍勢が少なかったこともあってか、石田三成島津義弘の存在をあまり重要視していなかった節がある。島津義弘伏見城攻めで武功をあげた後、西軍の諸将とともに美濃へ転戦し、最前線の墨俣で東軍と対峙した。じゃが、岐阜城が陥落し、合渡川で東軍に急襲された三成は、義弘らを置き去りにして兵を引いてしまう。また関ケ原合戦の前夜、島津義弘美濃赤坂にある徳川家康本陣への夜襲を進言するも一蹴されてしまう。

もっともこの話は後世に書かれた『落穂集』に記載されているだけで、島津方の史料にも言及がないことから、事実かどうかは疑わしい。それでも百戦錬磨の島津義弘、豊久が、石田三成の采配ぶりに疑念を抱いていたのは確かじゃろう。それが関ケ原合戦当日の島津軍の行動によく表れているように、わしには思える。

今日の儀は面々切ニ手柄次第ニ可相働候

慶長5年9月15日午前8時頃、濃霧の中で天下分け目の決戦がはじまった。島津義弘軍は石田三成軍のほど近くの小池村に布陣。じゃが、兵を動かそうとはせず、攻め寄せる敵を撃退することに専念していたという。

f:id:takatoki_hojo:20170122165118j:plain

石田三成は島津軍の参戦を促そうと、家臣の八十島助左衛門を使者として送る。ところが八十島は三成の口上を馬上から伝えてしまい、豊久はこれを無礼であるとして追い返されてしまうのじゃ。

「めんどうくさいやつめ」三成はそう思ったじゃろうが、とにもかくにも、自ら島津の陣に足を運び、豊久にあらためて進軍を要請した。このときの島津豊久の言葉が伝わっている。

今日の儀は面々切ニ手柄次第ニ可相働候、御方(三成)も其通り御心得可有由

「面々切」、つまり「今日の戦はめいめいが勝手に戦って手柄をあげればいいんじゃないの?」「あんた、全然わかってねえな」といった感じじゃな。

とはいえ、島津義弘も豊久も、まったくやる気がなかったというのはちょっと違うように思う。というのも、もし戦意がまったくないのであれば、こんな決戦場のど真ん中に布陣することはあるまい。いっそ戦線を離脱してしたり、徳川に内通するという選択肢もあったはずじゃからな。現実問題として島津軍はそもそも1500の兵しかなく、真正面から敵に突っ込んだところで大した戦力にはならない。また三成の救援に兵を割いて自陣を手薄にするわけにはいかないという事情が大きかったとわしは思う。じっくりと戦機を伺って、乾坤一擲の勝負に出よう、と虎視眈々とねらっていたのではないじゃろうか。そうでなければぼけっと戦場にいる理由がわしには解せない。

じゃが、けっきょく島津隊ににそのチャンスは訪れなかった。小早川秀秋の裏切りにより西軍が瓦解すると、島津隊は敵中に取り残されるカタチとなった。「もはやこれまで……」ここに史上有名な「島津の退き口」がはじまるというわけじゃ。

そして烏頭坂。命捨てがまるは今ぞ

関ケ原から戦線を離脱するにあたっては、後方の近江、伊吹山方面を選ぶのがセオリーじゃろう。じゃが、島津隊は前面の敵を蹴散らし、伊勢街道を抜ける道を選んだ。天下分け目の決戦にこれといった武威を示すことなく、他の西軍諸将といっしょに敗走するのを潔しとしなかったのかもしれんな。

f:id:takatoki_hojo:20170122174638p:plain
ドリフターズ(1) (ヤングキングコミックス)

島津隊は正面の福島正則隊に突撃を敢行する。すでに勝敗がついた今、福島正則は島津隊の決死覚悟をみてとり、あえて反撃することのないよう命じたという。島津隊は助けを求めて合流しようとする宇喜多秀家隊、小西行長隊の残兵に容赦なく鉄砲を射掛け、小早川秀秋隊を蹴散らし敵中を突破。徳川家康本陣脇をかすめるように通過し、伊勢街道へと戦線を離脱していく。

虚をつかれた徳川軍じゃったが、そこは三河武士の意地もある。むざむざと島津を逃してなるものかと、井伊直政松平忠吉本多忠勝らが激しく追撃する。かくして舞台は運命の烏頭坂に至る。

f:id:takatoki_hojo:20170122125514j:image

 島津豊久は、叔父・義弘を薩摩に帰すことにすべてを懸けた。

国家ノ存亡ハ、公(義弘)ノ御一身ニ掛ル事候

義弘さえ無事ならば、いずれ島津は徳川を滅ぼす……『ドリフターズ』での豊久のセリフじゃが、まさに歴史は270年後、その通りとなる。

「命捨てがまるのは今ぞ!」 豊久は島津得意の「捨て奸」を用いて、追撃してくる徳川軍を烏頭坂で迎え撃つ。「捨て奸」とは、座禅陣ともいわれる決死の戦法。殿(しんがり)をつとめる兵の中から何人かがその場に留まり、あぐらをかいて待機する。やがて敵兵が近づくと一斉射撃を行い、あとは槍と刀で吶喊して死ぬまで戦う。これを何度となく繰り返すことで敵を足止めにし、その間に本軍を逃がすという捨て身の作戦じゃ。

この島津の「捨て奸」により、まず井伊直政が狙撃され負傷。直政は後年、この傷が元で没している。また松平忠吉も負傷し、本多忠勝は馬が撃たれ落馬して後退。島津軍の反撃の凄まじさに、徳川家康は追撃中止を命じ、島津義弘は戦線をなんとか離脱することに成功する。

いっぽう島津側でも島津豊久、肝付兼護、阿多長寿院盛淳らが戦死。長寿院盛淳は、義弘が秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなり、切腹して果てている。最終的に義弘を守って薩摩へ生きて帰れたのはわずか80人しかいなかったそうじゃ。

f:id:takatoki_hojo:20170122125634j:image

ということで、烏頭坂にある島津中務大輔豊久の碑。ここには駐車場はないけれど、坂道のカーブのところに路肩があったので、そこにクルマを止めて参拝した。

島津豊久島津家久の子。「世に類いなき容顔美麗なるのみならず、知勇卓犖たる少年」との記録があり、知友兼ね備えた美少年であったと伝えられている。沖田畷で初陣を飾り、文禄・慶長の役でも数々の武功をあげている。

父・家久没後、若くして佐土原城主となった豊久は、周囲からは豊臣政権における独立大名としてみなされていたようじゃが、豊久自身は叔父・義弘への恩義を感じており、烏頭坂で奮戦する。

島津塚の伝承 かくして豊久はここで漂流者となった!?

f:id:takatoki_hojo:20170122125706j:image

烏頭坂で重傷を負った豊久は、そこから南へ下った上石津の樫原あたりまで行きつき、そこで絶命したという伝承がある。近くの瑠璃光寺に埋葬され、同寺には位牌もあるとか。近くには島津塚なるものがあるということなので、わしもそちらへ向かうこととした。

南へクルマで15分ほど、上多羅尾郷の公民館がある交差点の手前右側に、島津豊久墓所はあった。現地の案内板によると、瀕死の重傷をおった豊久は従者に支えられてどうにかこの地まで落ち延びてきたものの、自らの死期を悟り、また村人にあらぬ嫌疑がかかることを嫌い、自刃して果てたという。享年31。

樫原の名主・三輪内助入道一斉は豊久の亡骸を懇ろに葬ったという。なお、近くの瑠璃光寺には豊久の位牌が安置されているそうじゃよ。

f:id:takatoki_hojo:20170122125734j:image

f:id:takatoki_hojo:20170122132207j:plain

参道を入っていくと、「島津中務大輔豊久公墳墓之地」という立派な石碑があり、その奥に祠があった。どうやらここが「ドリフターズ」で豊久が紫に召喚された場所のようじゃ。

ドリフの第1巻には、雨の中、息も絶え絶え敗走してきた豊久が、大木に手をつく場面があり、わしにはそれが妙に印象に残っていたんじゃが、おそらくそれはこの木のことじゃろう。以後、豊久は一命を取りとめ、織田信長那須与一らとともに戦い続けることになるというわけじゃよ。 うん、間違いない。特定しました。

f:id:takatoki_hojo:20170122175200p:plain

f:id:takatoki_hojo:20170122125857j:image

島津豊久の塚には花が手向けられていた。ドリフで脚光をあびる前から、豊久は地元の人々から愛されておったということじゃろうな。 

なお、豊久らの奮戦のかいもあって、関ケ原の合戦後、徳川家康は島津家の討伐をとりやめている。西軍に与した諸将が苛烈な処分を与えられたにもかかわらず、お咎めなしとなったのは、井伊直政福島正則のとりなしももちろん大きかったじゃろうが、剽悍な島津軍と事を構えるのは、天下取りを前に得策ではないという家康の判断が働いたということに他ならない。

もっとも、家康は島津を誅伐出来なかったことが心残りで、死に臨んで自らの遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したと伝わっている。

「よか!」という豊久の笑顔が脳裏に浮かんできたよ。

f:id:takatoki_hojo:20170122125946j:image