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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

海北友松のこと〜葉室麟『墨龍賦』を読んだので、その感想もちょびっと

葉室麟さんの新刊『墨龍賦(ぼくりゅうふ)』(PHP研究所)を読了したので、今日は、その主人公・海北友松について。海北友松は桃山時代の絵師で、建仁寺の障壁画はとくに有名。この本の表紙絵となっているのはそのうちの「雲龍図」で、ここには友松が交流した武人たちの魂が宿っておるみたいじゃ。

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海北友松は、もともとは武門の生まれ。父は赤尾清綱や雨森弥兵衛とともに「海赤雨三将」と称された北近江浅井氏の重臣・海北綱親じゃ。五男とも三男ともいわれているが、武家においては「いざ」というときに血筋を残すため、兄弟のだれかが仏門に入ることが多く、友松も幼くして禅門に入り、東福寺で修行をしている。その後、浅井氏は織田信長によって滅ぼされ、海北家もまた断絶するが、友松は還俗してお家を復興させようという気概を終生持ち続けていたようじゃ。

絵画については、東福寺で修行の一環として学んだとわれている。やがて幕府御用絵師をつとめた狩野派で才を磨き、その腕前は自他ともに認めるところとなる。「美しさだけの絵が何になろう。絵はおのれの魂を磨くために描くものではないのか」。この小説では、友松は武人としてお家を再興する志を燃やしながらも、絵師として生きぬいていく。海北友松は東福寺の退耕庵主であった安国寺恵瓊と親しかったらしい。小説の中でこんなやりとりをしている。

友松は鼻で嗤った。
「策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決する、というがつまるところ、おのれは傷つかぬ場所におって、出世をしたいというだけのことではないか。それではおのれを磨くことはできまい」
恵瓊は澄ました顔で言い返す。
「おのれを磨くとは世間体のよい言葉ですが、それはおのれの中に何かがあってのことではございませんか。おのれに何もなければ、磨いてもすり減るだけのこと。仕舞いには何も無くなって消え去りましょう」

毛利の外交僧として蠢動する恵瓊に友松は引っ張り回される。友松もまた、「間者はしない」といいながらも、恵瓊のリクエストに応えていき、やがて物語は本能寺の変へとつきすすんでいく。そこでキーマンになるのが明智光秀の重臣・斎藤利三じゃ。

若干、ネタバレになるが、この小説の後半では、斎藤道三織田信長に贈ったという「美濃譲り状」の存在が嘘であることを、はからずも友松が明らかにしてしまう。それが契機となって本能寺の変が起こるのだが、その黒幕は斎藤利三でありもっといえば……そう、あの女性が登場してくるわけじゃよ。

「私の名は蝶ですが、上様はいずれ、法華の蜘蛛の巣に囚われることとなりましょう」

もちろん長宗我部元親もしっかりと絡んでくるし、安国寺恵瓊羽柴秀吉など役者はそろっておる。ただ、この小説の主題は本能寺の変の謎解きではなく、友松の生き様にある。本能寺の変も、明智光秀山中鹿之助も、海北友松という男を描くにあたっての材料にすぎないので、そこを履き違えて読んではいかんかと。

ちなみに、海北友松と斎藤利三の親交は史実としてもうかがい知ることはできるが、作中で利三は友松に信長を討つことをさりげなく告げる。

「上様は間もなく中国攻めのため、京に出てこられるはず。宿泊されるのは、おそらく本能寺であろう」
「友松殿、絵師になられたからには、画題を求めねばなりますまい。六月一日より、夜っぴて桂川に出向かれてはいかがか。数日かかるやもしれぬが、よき景色をご覧になれるのではないか」

桂川を渡る明智軍に、友松は「雲龍」をみる。そして覇王信長の横死を聞き、快哉を叫んだ。じゃが、それもつかの間、安国寺恵瓊と図って中国筋をとって返してきた羽柴秀吉明智光秀は敗れ、斎藤利三もまた首を本能寺に、遺骸を粟田口に晒される。

「斎藤殿、わたしにできることはたったこれだけだ。許されよ」

友松は真正極楽寺真如堂)東陽坊長盛と協力し、刑場に槍をふるって乱入し、利三の遺骸を奪還する。また利三の娘・おふく(春日局)を匿ったのも友松だといわれている。

以後、友松は、後陽成天皇八条宮智仁親王をはじめ、公家や武家の支持を得て、桃山画壇の代表的絵師として活躍する。天下人となった秀吉とも茶会の席で会っており、そのとき秀吉から「浅井の海北家といえば我が兵法の師」と、いかにも人たらしらしい言葉をかけられたようじゃが、おそらく友松の心にはなにも響かなかったことじゃろう。

慶長4(1599)年には、友松は建仁寺大方丈障壁画(重文)を制作している。作中では安国寺恵瓊のコネによることになっていたが、「雲龍」に瞠目する恵瓊に、友松は「この絵には武人の魂をこめました」と語っている。このくだりは、なかなか面白かったぞ。それと、関ケ原で敗れた恵瓊と友松が再開するシーンもな。

友松は64歳のときに、浅井家の武士の娘を妻に娶り、子をもうけた。また、あの宮本武蔵が友松に絵を学んだという話もあるらしい。じっさいに指導を受けたのかどうかは疑わしいが、その画風に影響を受けたのは確かじゃろう。

慶長20年(1615)6月2日、海北友松没。享年83。すでにこの年、豊臣氏大坂城に滅び、戦国時代は終焉している。なお、友松の子孫はこの後、春日局から幕府御用絵師として江戸に招かれている。

海北友松の墓所真如堂にあり、斎藤利三、東陽坊長盛の墓と仲良く並んでいる。今度、京都に行ったら訪ねてみようかのう。

墨龍賦(ぼくりゅうふ)

墨龍賦(ぼくりゅうふ)

 

ということで、葉室麟さんの『墨龍賦』は、ちょいと主人公の海北友松が青臭い感じはしたけど、読み応えある小説じゃったのは確か。もっとも、織田信長好きには抵抗があるかもしれんが、明智ヲタ、浅井ヲタなど、アンチ信長の人には少なくともおすすめじゃよ。