呉座勇一氏の中公新書を読んだのをきっかけに、応仁の乱について備忘録的に書いていくシリーズ。今日は将軍・足利義政についてじゃよ。
足利義政の将軍就任
世間的に足利義政といえば、よいイメージはないじゃろう。将軍の立場にもかかわらず、応仁の乱という未曾有の大乱そっちのけで、クラブ活動に勤しんだダメ将軍という印象じゃな。しかも正室は日本三大悪女のひとりとわれる日野富子。夫がアパシー状態になるのをよそに、わが子・義尚を将軍後継に無理推し。おまけに東西両軍に金貸しをしたり、関銭を着服したりと、内乱に乗じて蓄財に励む。そんな富子をまったく制御できない義政のダメ夫ぶりは、歴ヲタじゃなくても知っておろう。じゃが、じっさいの義政はそんなじゃったのかというと、けっしてそうではない。本書を読むと、義政は義政なりに頑張っていたことがよくわかる。もちろん、多少のトンチンカンはあったけどな。
義政は、あの籤引きで将軍になった6代足利義教の庶子。兄の7代将軍・足利義勝が早世したため、畠山持国の後見を得て、わずか8歳で将軍となった。幼くして執権になったわしと境遇がそっくりじゃな。
当時の室町幕府は伏魔殿そのもので、魑魅魍魎の巣窟じゃった。乳母の今参局、育ての親の烏丸資任、側近の有馬持家の「三魔」をはじめ、母と妻の実家の日野家、さらには有力守護大名がそれぞれの思惑で暗躍していた。
そんな中で義政は、幕府の言うことをきかない鎌倉公方をすげかえようとしたり(享徳の乱)、畠山氏や斯波氏のお家騒動では、将軍の影響力を確保すべく積極的に介入している。幕府内で急速に発言力が増してきた山名宗全を抑えるために、嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興させるなど、政権強化に努めている。義政は祖父・義満の時代を理想に、父・義教のように、将軍専制をめざしていたのかもしれぬな。
文正の政変で義政側近グループが粛清
応仁の乱といえば、足利義政の将軍後継問題がその原因として語られる。寛正5年(1464)、実子がいなかった義政は、僧侶になっていた弟を還俗させる。これが足利義視じゃ。義視は日野富子の妹・良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため今出川殿と呼ばれた。
ところが、義政と富子の間に義尚が誕生すると、義視の立場は微妙になっていく。義政自身は義視→義尚の順で将軍職をつがせようと考えていたふしがある。日野富子も義政と同じように、義尚が成長するまでの中継ぎとして、義視の将軍後継を認めていたといわれておる。世間では、日野富子の横やりで将軍後継問題がもつれ、応仁の乱がおこったといわれているが、実態はそうではないということじゃな。
この当時、幕府では3つの政治勢力がそれぞれの思惑で牽制しあっていたひとつは伊勢貞親、季瓊真蘂らの将軍側近グループ。伊勢貞親は義尚の乳母であり、彼らは足利義視の将軍後継には反対であり、管領に斯波義敏を担ぎ出そうと目論んでいた。彼らは必ずしも義政のため、将軍のためというより、自分たちの利権のために活動していた面もあり、このあたりは、北条得宗家における御内人のようなもんじゃな。
これに対して、山名宗全を首班とする新興勢力グループは義政の隠居を望んでいた。義政の影響力を排して将軍には義視を担ぎ、管領に斯波義廉を立て、幕政を牛耳ろうという腹じゃ。宗全はこの当時、もっともパワーのあった守護大名といえるじゃろう。
いっぽう、細川勝元は管領の畠山政長とともに穏健中道グループを結成。義政→義視→義尚の規定路線を維持することをめざし、これまでどおり、自分たちの幕府内での発言力、影響力を確保しようと考えていた。
そうした中でおこったのが文正の政変じゃ。義政側近グループは足利義視が謀反を企んでいると讒言し、義尚の後継を一気に決しようと目論んだ。これに対して細川山名ら守護大名が共闘し、義政に君側の姦の排除を迫った。これにより貞親らは失脚するのじゃが、側近を失った義政は、これ以後、手足をもがれて思うように政治を行えなくなっていく。幕政は細川勝元と山名宗全が主導するが、もちろん両雄並び立たず。ふたりは確執を深め、応仁の乱へとすすんでいくが、事はもはや義政ではどうにも処置できないところへとすすんでいったといえるじゃろう。
御霊合戦〜義政の無節操、無定見
応仁の乱の直接のきっかけは畠山政長と義就の御霊合戦ということになるが、そのときの足利義政の行動はどうしても理解に苦しむところではある。文正の政変のゴタゴタに乗じて、お家騒動で畠山政長に敗れて逼塞していた畠山義就が兵を率いて上洛する。この動きは細川勝元ー畠山政長ラインで幕政が運営されていることに不満をもっていた山名宗全と連携したものである。宗全は娘婿の斯波義廉を通じて義就とつながり、これを引き込むことにより形勢逆転を図ったというわけじゃ。
軍勢を率いて上洛した畠山義就は千本釈迦堂に陣を敷く。畠山政長はこれに対抗して屋敷の四方に櫓をつくって立て籠もり、緊張状態が続いた。そんな中で、はじめ義政は政長を支持し、文正2年正月、義政は政長から「椀飯」を受けている。「椀飯」は家臣筆頭である管領が将軍に食事を献じる幕府の大切な儀式じゃ。
ところが翌2日、義政は管領屋敷で饗応を受ける恒例行事の「御成始め」をとつぜん中止。正月5日、なんと政長ではなく義就への「御成」を行ったのじゃ。義就は山名宗全の屋敷を借りて義政を饗応する。そこには足利義視、諸大名も随行し、加わらなかったのは畠山政長、細川勝元、京極持清のみじゃった。そして翌6日、義政は管領の政長を罷免、畠山屋敷を義就に譲るよう命じたのじゃ。義政が翻意したのは、義就の上洛により山名派が軍事的に優位にたったと判断したからといわれておる。
もちろん勝元も黙ってはいない。すぐさま軍勢を率いて義政に圧力をかける。すると義政は争いが大きくなることを恐れ、勝元と宗全に畠山のお家騒動に軍事介入することを禁じる。政長と義就を対決させ、勝った方を支持しようと提案したわけじゃ。
なんとも無定見で節操のない将軍様じゃが、呉座氏はそんな義政をこう評している。
勝った方を支持するという義政の態度は無定見の極みであるが、これまでの畠山氏内訌においても、義政は基本的に優勢な側の味方であった。おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである。義政はある種の柔軟さによって畠山氏内訌をなんとかさばいてきたのであり、今回も局外中立を保つことで戦乱の拡大を防げると判断したのだろう。
義政の思惑は大きく外れてしまう。じゃが、にこの時点で義政にできることはこの程度であったじゃろう。側近を失い、政治的な手足をもがれてしまっておるからな。幸い、細川勝元は馬鹿正直に義政の命を守ってくれたが、山名宗全はこれを無視。義就に加勢し、御霊合戦を勝利させ、力づくで勢力拡大に動いた。面目をつぶされた勝元は当然反撃の機会を虎視眈々と狙う。将軍の意向などはもはや関係なく、泥沼の内乱はもはや避けられない状況になってしまったんじゃな。
なお、畠山氏の内訌、細川山名の対立については、こちらを読んでもらえれば幸いじゃ。
はたして足利義政は史上最悪の将軍なのか?
その後の経緯をざっくりとふれておく。紆余曲折を経て足利義政は細川勝元の東軍に将軍旗を与え、山名宗全追討令を出すことになる。いっぽう劣勢になった宗全は、大内政弘を引き込み劣勢を挽回。さらには義政とに関係が悪化した足利義視を取り込んで「西幕府」として対抗。応仁の乱は出口が見えないまま、長期化していくことになる。この間、義政はただ傍観していたわけではなく、和平工作に動いたり、西軍の朝倉孝景を東軍に引き込んだりと、それなりの動きを見せている。
文明5年(1473)、細川勝元、山名宗全の両名が死ぬと、義政もまた将軍を義尚に譲って隠居。それでもまだ政治的な影響力は残しており、義政は「東山殿」、義尚は「室町殿」と呼ばれた。しかし、応仁の乱が集結すると完全に引退。義政は東山山荘(東山殿)を造営して文化活動へと没頭していく。銀閣を建立し、絵画や能楽など文化的な活動に力をいれる。初花、九十九髪茄子といった茶器がつくられたのもこの時代であり、日本文化の伝統の「わび・さび」の世界はここからはじまったというわけじゃな。そんな義政をドナルド・キーン氏は「史上最悪の将軍は、すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍だった」と評している。ほめておるのかけなしておるのか、よくわからんな、これ。
作家の永井路子さんは義政のことを、「源実朝によく似た人物」としている。文化活動に傾倒していくあたりもそっくりで、権力者が無力感を感じるとこうなるのかな、と妙に納得する。そういえば、北条最後の得宗も、闘犬や田楽、仏画など趣味の世界に没頭し、鎌倉幕府を滅ぼしてしまったなと(自虐)。
呉座勇一氏はインタビューで、義政に似た人物として「毛並みがよくて、頭もいいのに、優柔不断な上にムラ気がある。すぐ決断したり、もっと粘ったりしていればうまくいったはずなのに、と思える場面が少なくない」「将軍としての自覚もあり、戦いを終わらせようと努力もしていたが、やることなすことタイミングが悪かった」とし、近衛文麿を挙げているが、これもまた得心がいく。
たしかに義政は、あっちにふらふら、こっちにふらふらと無節操の誹り免れない。応仁の乱がいたずらに拡大、長期化した原因の一つは義政の無定見にあるのは確かじゃろう。じゃが、それは義政の個人的な資質の問題にしてしまうのは酷じゃ。守護大名の連合政権という室町幕府の体制では、よほどのカリスマ性がなければ、みな、義政のように動かざるを得ない。無理やり将軍権力で動かそうとすれば、父・義教のように誅殺されてしまうのがオチじゃ。そういう点でも、たしかに近衛文麿に通じる部分がたしかにある。
そういう意味ではちょっと義政が気の毒な感じもするし、他人事には思えないんじゃがな。少なくとも世の中の乱れをよそにクラブ活動に勤しんでいたという教科書的な評価はそろそろ見直してあげないとかわいそうじゃ。 まして悪妻・日野富子の尻に敷かれていたなどという中傷は、すぐさま書き換えねばならんな。