今日5月27日は日本海会戦があった日。明治38年(1905)5月27日、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を破った歴史的な一日じゃ。わしも司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を胸熱で読んだひとりじゃが、もしこの一戦で連合艦隊が敗れていたら、日本はロシアに制海権を奪われ、補給路を断たれた大陸の陸軍は孤立する。日本海海戦はまさに日本の運命を決める戦いであった。そんな歴史的勝利の立役者といえば、東郷平八郎、秋山真之らがあげられるが、きょうは影の恩人ともいえる小栗上野介忠順について書いてみたい。
小栗上野介忠順は幕末の勘定奉行・軍艦奉行をつとめた幕臣。父は新潟奉行小栗忠高で、幼い頃はかなりのわんぱく坊主だったらしい。万延元年(1860)には、日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米。通貨の交換比率をめぐってタフな交渉をこなし、アメリカメディアでも絶賛されたほどのテクノクラートじゃった。
小栗は帰国後も崩れゆく幕府を支えるべく奮闘し、戊辰戦争では強硬な抗戦論を主張した。大政を奉還し、平和裏に新国家建設に参画しようという徳川を謀略で追い込み、政権のイニシアチブを握ろうという輩を、三河以来の直臣の家の者としては看過できない。欺瞞のうえにつくられる新政府なで。小栗は許せなかったんじゃろう。
じゃが、小栗はけっきょく徳川慶喜に罷免されてしまう。水戸出身の慶喜は足利尊氏のように後世、朝敵として歴史に刻まれることを極度に恐れた。かわりに浮上してきたのが勝海舟じゃ。かくして小栗は、江戸260年の歴史で将軍から直接罷免を言い渡された唯一の幕臣となってしまったわけじゃ。まあ、わしはこれ、勲章じゃと思うけどな。
ちなみに小栗は「薩長軍を箱根で迎え撃ち、駿河湾から榎本艦隊による艦砲射撃で補給路を断ち、敵を一挙に殲滅する」という必勝の作戦を立てていた。後にこれを聞いた大村益次郎は、「もし、それが実行されていたら、今頃、われわれの首と胴は離れているだろう」と舌を巻いたと伝えられている。この後、小栗はけっきょく上州権田村に退く。じゃが、新政府は小栗の存在を恐れた。難癖をつけて捕縛し、問答無用と首を刎ねた。明治新政府のブラック史のひとつしゃな。
さて。そんな小栗の最大の功績は、なんといっても横須賀製鉄所の建設じゃろう。当時、江戸幕府の財政は火の車であり、とてもじゃないが製鉄所なんぞに金を出せる状況にはなかった。また、ある幕臣は「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもその成功する時分には幕府はどうなるか分からない」と反対したという。それに対して小栗はこう語ったと伝えられている。
「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。我は幕府の臣であるから幕府の為に盡くす身分ではあるけれども、結局日本のためであって幕府のしたことが長く日本の為となって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据にしても土蔵付売据の方がよい。跡は野となれ山となれと云って退散するのは宜しくない」(島田三郎「懐舊談」)
さすがに小栗である。こんな人材を因縁つけて殺してしまったんじゃから、新政府の底が知れる。ともあれ、徳川の家臣であると同時に日本人だ、というこの精神を、平成の政治家は見習ってほしいものじゃ。そういえば安倍晋三首相は長州人じゃったな。なお、この逸話については、悲運に倒れた小栗を顕彰するために盟友の栗本鋤雲が創作した話だという識者もおるらしい。なんともひねくれた、嫌なことをいう者がおるんじゃな。
話が逸れたが、小栗はフランスのレオン・ヴェルニーを招いて横須賀製鉄所を建設する(後の横須賀海軍工廠)。幕府瓦解後、明治新政府はこれを受け継ぎ、ここで多くの軍艦を製造する。そして明治45年(1912)7月、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は自宅に小栗の娘婿の小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である」と礼を述べたという。小栗の国を思う心が通じた瞬間というわけじゃな。
大隈重信は「明治の近代化のほとんどは小栗の構想の模倣に過ぎない」と語った。また司馬遼太郎も小栗を「明治のファーザー」のひとりと評している。いっぽうで、小栗をガリガリの徳川亡者という阿呆が未だにいるが、そういう輩はえてして徳川慶喜や勝海舟を持ち上げたり、明治政府を用語する文脈でテキトーこいているのがほとんど。
それに比べて、東郷のこの態度は立派である。さすが日本を守った名将。東郷がリーダーでなければ、日本海海戦の勝利はなかったじゃろう。だいたい、あんな場面で「東郷ターン」とか決断しないじゃろう。