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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

伊勢原に大友皇子のお墓があると聞いて訪ねてみた。

所用で伊勢原にいったのじゃが、なんでも大友皇子の墓がこのあたりにあると聞いて訪ねてみたんじゃが……あったあった、やはりあった!  東丹沢、大山麓の日向渓谷、日向薬師の林道を入っていくと難なくみつけることができた。じゃが、なんで、大友皇子の墓が伊勢原にあるんじゃ?

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大友皇子について 

大友皇子天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)。近江朝で太政大臣として天智天皇を補佐し、その後継とされていたが、壬申の乱で叔父の大海人皇子天武天皇)に敗れて自害。明治3年(1870)、「弘文天皇」と追号されたが、実際に即位したかどうかは定かではない。

と、まあ、ここまではよく知られたことじゃが、それにしても、なぜ、伊勢原大友皇子の陵があるんじゃ? わし、じつは滋賀県に住んでいたことがあるんじゃが、大津市役所の裏には宮内庁管理の弘文天皇陵があった。日本書紀(だったかな)には、大友皇子が「山前」というところで首を吊って自害したと記されている。

なぜ、伊勢原大友皇子の墓があるのか

この陵の説明書によると、皇国地誌日向村には「相伝往古古兵乱ノ際親王此地ニ行宮ヲ建築シテ御座シマス、終ニ行宮二崩ジ賜フ、ヨツテ此地ニ埋葬シ奉ル」とあるという。伝承によると、大友皇子百済の若者を身代わりに自害したと偽り、わずかの従者つれてこの地に隠れ住み、静かに生涯を閉じたとか。その際、遺言により墓所には皇子が生前に愛した松が植えられたが、後に華厳法師が日向の地にわけ入って、皇子のために一寺を開基する。この寺が医王山雨降院石雲寺じゃな。その後、ちょうどわしの治世であった鎌倉末から南北朝初期の頃には、里人が五層石塔を皇子の墓とし、五輪塔を従者の墓として建立したと伝えられているそうじゃ。 

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もちろん、にわかに信じられる話ではない。おそらく源義経豊臣秀頼の生前伝説のようなものかもしれん。じゃが、それにしてもこんな坂東の山奥になぜ、皇統にまつわる伝承が……

百済人の関東入植

じゃが、その謎解きのヒントは「日本書紀」の天智天皇即位5年冬の記述にある。

以百濟男女二千餘人、居于東国。

百済の男女2000余人が関東に入植したというのじゃ。天智天皇即位5年といえば西暦666年。白村江で日本・百済の連合軍が新羅・唐の連合軍に敗れた3年後。国難を察知した天智天皇が諸政人心を一新するために近江大津宮へ遷都する前の年じゃ。白村江の戦いの敗北により、日本は多くの百済人亡命者を受け入れたが、かなりの人数が関東に送られ、以後3年間に渡り官食が支給されたという。

すべて謎は解けた!(「金田一少年の事件簿」風www)

大友皇子がほんとうにこの地に逃げてきたかどうかはわからん。じゃが、この伝承が生まれた背景には、まちがいなく入植してきた百済人たちが関わっているはず。百済人は天智天皇に恩義があった。当然、悲運に見舞われ、故郷を追われた大友皇子への憐憫の情は強かったじゃろう。あるいはほんとうに皇子は坂東の百済人を頼って、この地に落ちてきたのかもしれぬ。伊勢原の糟屋庄は、たしか北条一門の大仏貞直が治めていたので、こんど詳しい話を聞いてみよう。ちなみに、大友皇子の似たような伝承は、千葉県君津市にもあるらしいぞ。

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大友皇子はわしと違って才あふれるなかなかのイケメンじゃったと聞いたことがあるから、その悲劇的な最期を哀れむ人は少なくなかったじゃらろう。日本人は判官贔屓なところがあるし、こうした伝承はたくさんある。「嘘やろ〜」などと言わずに、歴史の浪漫を素直に感じとることもまた、歴ヲタ活動では大事なように思うぞ。