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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

九戸政実はなぜ、秀吉に喧嘩を売ったのか

このGWに東北旅行に行ってきたのじゃが、その折、九戸城跡に立ち寄ってきた。高橋克彦さんの『天を衝く』、安倍龍太郎さんの『冬を待つ城』に感化され、一度は訪れたいと思っていたんじゃが、ようやく念願がかなったというわけ。

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ということで今日は、「北の鬼」との異名をとり、太閤秀吉に最後に喧嘩を売った男・九戸政実についてじゃ。ちなみにこちらが東北新幹線の二戸駅でお出迎えしてくれるイケメンの九戸政実じゃよ。

九戸氏の出自について

南部氏の公式発表によると、九戸氏は南部氏の祖・南部光行の六男、九戸行連とされている。光行は石橋山合戦で源頼朝公に従った功により、甲斐国南部牧を与えられて南部を称した。その後、光行は奥州藤原攻めで武功をあげ、陸奥国糠部五郡を与えられた。その六男の行連が分家して、九戸郡伊保内を領したことから、九戸氏を称するようになったということらしい。

じゃが、鎌倉時代御家人は代官を派遣して所領を治め、本人は鎌倉に出仕するのがふつうじゃ。じっさい、南部光行陸奥国に下向した記録は後世につくられた南部氏の家伝にあるものの、良質な資料にはみあたらない。最近の研究では、光行もまた鎌倉にいたことが確実視されておるらしく、南部氏が陸奥国に土着したのは鎌倉後期、安藤氏の乱の頃ではないかといわれておる。しかも、鎌倉幕府滅亡後、九戸は結城親朝に与えられている。こうして考えると、九戸氏の始祖を行連とし、以後11代政実まで九戸を領有してきたという説は無理があるようじゃな。

いっぽう、九戸神社伝は、政実は、永享12年(1440)の結城城攻めで総大将をつとめた小笠原政康の流れをくむとしている。軍記物『九戸軍談記』でも、政実が「結城総大将美濃中川の惣領小笠原正安の子孫」と名乗りをあげる場面がある。もちろん、この説にも確証があるわけではない。じゃが、政実がさいごまで信直の傘下に入るのを拒み、乱を起こしたことを考えると、九戸氏は三戸南部氏の流れとは、やはり無縁なように思えるのう。

出自は判然としないが、いずれにせよ九戸氏が戦国大名・南部氏にとって有力な氏族であったことは確かじゃ。この当時の南部宗家を継いだ晴政は、北は下北半島から南は岩手県北上川中央部まで、積極的に領土を拡大し、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどじゃった。そんな中で九戸党は南部氏の精鋭部隊であり、政実は家中で信望を集め、大きな発言力をもっていたんじゃよ。

南部信直九戸政実

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南部晴政

戦国大名として版図を広げた晴政には男子が無かった。そこで石川高信の子・信直を長女の婿とし、世子と定めた。さらに九戸政実の弟・実親を次女の婿とし、九戸党との関係を強化し、家中の統制をはかった。じゃが、晴政に実子・晴継が生まれると、信直との関係は急激に悪化していく。武家によくあるお家騒動じゃな。まあ、じつの息子はかわいいもので、これはいつものお決まりパターン。大浦(津軽)為信が南部からの独立をめざして信直の実父・石川高信を弑逆したときですら、晴政は積極的に動かなかったくらいじゃから、かなりふたりの間は冷え込んでいたんじゃろう。

そんな中で信直の妻が没する。身の危険を感じた信直は世子を辞していったん田子館に退く。じゃが、疑心暗鬼の晴政が刺客を放ったという噂を聞いた信直は、北信愛を頼って剣吉城に逃れる。晴政はこれをチャンスとみて信直討伐のために剣吉城に出兵する。このとき九戸政実は動かず、八戸政栄がなんとか両者を仲介して騒動は収まったが、南部家中はしこりを残したまま、やがて晴政が病没してしまう。

そして大事件が起こる。晴政の葬儀の日、なんと世継ぎの晴継が何者かに暗殺されてしまうのじゃ。刺客を放ったのはいったいだれか。後継をねらった南部信直か。信直を支持する北信愛か。それとも弟の実親を世継ぎにしたい九戸政実か。真実はもちろんわからない。じゃが、疑心暗鬼の中、三戸城で開かれた大評定では、信直が第26代の南部家当主となることが決定した。

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南部信直

当初は九戸実親を推す意見もあったようじゃが、一族の重鎮・八戸政栄が信直を推したことが決定的だったらしい。もちろん、これは北信愛の根回しが効いてのことじゃろうが、実親後継となれば九戸党の発言力がますます大きくなる。八戸政栄はじめ、一族重臣の多くは、これを警戒したんじゃろう。

それにしても晴継を暗殺した犯人はだれなんじゃろう。動機については信直にも政実にも同じようにある。じゃが、先代に疎まれた信直は、どうしても劣勢じゃったし、政実は晴継を殺さなくても、家中の発言力は実親を介して十分に確保できていた。そう考えていくと、ここはやはり南部信直か、北信愛ら信直親派が起死回生をねらって手を下したと思うんじゃが、どうじゃろうか。もちろんなんの証拠もない、わしの勝手な印象操作じゃがな。

いずれにせよ、実親後継に失敗し、遺恨を抱いた政実が、後年、信直に反乱を起こしたーこれが、巷間よく言われる九戸政実の乱の原因じゃ。まあ、南部氏の立場からすれば、これがいちばん都合がよい史実なんじゃろう。歴史は勝者がつくるものじゃからな。こればかりはしかたがない。

なぜ、九戸政実は乱をおこしたのか

晴れて南部氏の家督を継いだ信直は、その後、織田信長へ、ついで豊臣秀吉へと誼を通じる。天正18年(1590)には秀吉の小田原征伐に参陣。奥州仕置にも従軍し、豊臣大名として糠部など7郡の所領を安堵されている。あの伊達政宗ですら秀吉に臣従したんじゃから、南部の当主として、これは当然の判断じゃろう。

じゃが、これは政実にとっては我慢のならないものじゃった。秀吉に安堵された糠部郡には九戸と二戸も含まれており、政実は信直の家臣として豊臣政権に組み込まれることになるからじゃ。たしかに信直は宗家ではあるが、南部は一族が結束して守ってきた国。三戸南部氏を中心に、八戸氏、九戸氏、櫛引氏、一戸氏、七戸氏ら「郡中」による同族連合で治めてきた国じゃ。一族は身内ではあってもけっして家臣ではない。九戸も二戸も自分たちが守ってきた土地。信直も関白も関係ない。信直にしてみれば時勢をよめない老害の戯言にみえたじゃろうが、これは政実の、九戸党の矜持であったとわしは思う。

「関白とやらがどれほどのお方かは知らぬが、何百里も離れた都にいてこの地のことがわかるはずがあるまい。そのような輩の命令に唯々諾々と従うのではなく、この地の事情と領民の意見を上に伝えるのが、総領なる信直どのの役目ではないか」(安倍龍太郎『冬を待つ城』)

奥州仕置への不満から、葛西大崎、仙北、和賀稗貫など、一揆が続発している。いくら関白とはいえ、問答無用で上方のルールを一方的に押しつけてくる秀吉を政実は許せなかった。

「逆らうものは容赦せぬとほざいておるらしいが、そもそも奥州は秀吉と無縁の地。逆らうも逆らわぬもあるまい。関白太政大臣となったからには当たり前と思っておろうが、それなら使者を諸国に遣わしてからもうすべきこと。なにも言わずにおいて、自ら従うものの数を見極めるなど、田舎者のすることだ。そんな器量では秀吉の栄華も永くは保つまい(高橋克彦『天を衝く』)

天正19年、政実は三戸城での正月参賀に出向かず、南部宗家からの離脱。3月には九戸党に与みした櫛引清長が苫米地城を攻め、九戸政実の乱が勃発する。精強な九戸党の前に、南部氏は各地で敗れた。信直は独力での九戸党討伐を諦め、秀吉に援軍を求める。かくして、秀吉の天下統一に抗う最後の戦いが陸奥の辺境ではじまる。これが九戸政実の乱というわけじゃ。

今の世には生きて未来に役立つ者と、死んで未来につなげる者とがある。欧州で真っ先に秀吉どのに京順を示した南部の中に、手前のような者がおることこそ肝要。戦となって果てたとしても、必ずその意を汲み取ってくれる者が出て参ろう」(『天を衝く』)

ということで、だいぶ長くなってきたので、続きはこちらを。

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天を衝く(1) (講談社文庫)

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冬を待つ城

冬を待つ城