みちのくひとり旅、弘前城訪問記の続き。ぷらぷらと歩いていたら、おばちゃんガイドが話しかけてきた。すっかり葉桜状態で残念がるわしに、「あど一週間早ぐ来れば……」と津軽弁で気さくに話しかけてくれたおばちゃん。ひとしきり話していたら、次第に話題は津軽と南部の関係へと……やはりそこへ行くんだな、うん。
津軽藩の先見性
まず、おばちゃんは津軽藩がいかに先見性があったかを熱く語ってくれた。
- 藩祖・津軽為信は天下の趨勢をよく見極めていて、南部氏から独立をはたすと、石田三成を通じて豊臣秀吉に臣従し、お家と領土を守った
- 関ヶ原の合戦でも先を見通して徳川に味方した。ただし石田三成の子をこの地で匿うなど、為信はやさしく義理堅い男でもあった
- 戊辰戦争でも先見性を発揮し、奥州諸藩がこぞって徳川に味方する中、列藩同盟を脱退し、新政府軍として戦った
南部の人は津軽を裏切り者というけれど、それはおかどちがい。津軽は中央から遠く離れていたけれど、情報を集め、時代を読んでつねに行動したからこそ、今日の弘前の繁栄につながった、というんじゃ。なるほど、郷土を愛する心というのは大切じゃ。津軽と南部の確執については、わしは部外者なので、余計なことを言える立場にない。ただ相づちうって退散するだけじゃったが、せっかくなので、その歴史をまとめておこうと思う。
津軽為信は南部信直にとって父の仇
津軽(大浦)為信は、もともと南部氏の被官じゃったが、元亀2年(1571年)、石川高信を討ち取り、南部からの独立をめざした。石川高信は南部信直の父親じゃから、為信は信直にとって親の仇ということになるが、この頃の南部は当主の晴政と信直の対立もあって、為信に兵を差し向けることができなかった。その後、南部の家督を継いだ信直は為信討伐を目論むも、九戸政実らが動かず断念。この間に為信は浪岡御所を落とし、外ケ浜を領有し、津軽一帯を勢力下に置いてしまう。
そして為信は天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、独立した大名としての地位を認められる。南部信直は前田利家を通じて秀吉に接近し、糠部郡をはじめとする所領を安堵する朱印状を得ていたが、津軽地方を為信に横領されたという訴えは認められず、を南部と津軽は豊臣政権下で対等の独立大名として扱われることになる。この裁定は信直にとっては忸怩たるものであったじゃろう。津軽と南部の確執はここからはじまったというわけじゃな。
盛岡藩士が津軽の殿様を暗殺しようとした相馬大作事件
その後の関ヶ原の合戦では、津軽も南部も東軍に味方し、徳川幕藩体制に組み込まれていくわけじゃが、犬猿の仲の両藩の遺恨は続いていく。その中でも有名な事件は相馬大作事件じゃろう。
正徳4年(1714))、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる藩境をめぐる紛争が起きた。この紛争は幕府の裁定により弘前藩の勝訴となったが、盛岡藩には不満をつのらせる結果となる。
さらにこの頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に備えて北方警備を命じにつくことなり、従四位下に叙任される。いっぽう盛岡藩主の南部利用はまだ若年ということもあり無位無官のまま。おまけにこの時期には、たまたま幕府が藩石高の再計算を実施したところ、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を上回ってしまう。従来、津軽藩を格下とみなしてきた南部の人々は、そのプライドを大いに傷つけられてしまう。
そうした中でおきたのが相馬大作事件じゃ。盛岡藩士の下斗米秀之進は弘前藩主の津軽寧親に辞官隠居を勧め、聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺予告を送りつける。弘前藩はこれを無視したが、秀之進が江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅付近で待ち伏せし、暗殺することを計画した。この事件は密告により未遂に終わるが、秀之進は出奔して「相馬大作」と変名し、江戸に潜伏する。その後、秀ノ進は捕らえられて死刑となるが、この事件の後、津軽寧親は隠居することとなり、秀之進の目的は達せられ、人々は秀之進を「南部の大石内蔵助」と、大いにもちあげたという。
後世の無関係なわしからすれば、あまりにもたわいもない、子どもじみた事件にしか感じないが、両藩の怨恨がいかに深いものであったかが思い知れる事件とはいえるじゃろう。
またも津軽が裏切った戊辰戦争
(写真はWikipedia 野辺地戦争戦死者墓所)
さて時代は下がって幕末、戊辰戦争のとき。南部も津軽も当初は奥羽越列藩同盟に加盟し、会津、庄内両藩の救済に動いていた。
じゃが、津軽は当初から列藩同盟には懐疑的であったようで、近衛家との関わりの深さを理由に、のらりくらりと領外への出兵を拒否。やがて密かに同盟を離脱し、新政府軍に恭順した。いっぽうの南部は家老の楢山佐渡が薩長を嫌っていたこともあり、いち早く同盟を離脱した秋田藩を攻めていた。じゃが盟主であった米沢仙台が降伏し、会津若松も落城したことから、やむなく新政府軍に恭順した。
ところが、南部が降伏した翌日、とつぜん津軽は南部領の野辺地に侵攻する(野辺地戦争)。これは新政府軍に対する津軽のパフォーマンスにすぎず、戦いそのものは一日で終わったが、南部側の怒りは大きかった。そりゃあ、そうじゃよな。死人も出てるし、村は放火されているわけじゃから。
戦後、盛岡藩は大幅に石高を減らされた。また下北半島には会津藩士が入植し、斗南藩が置かれた。そして廃藩置県により、現在の青森県域には、旧藩を引き継ぐかたちで弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県が成立。その後は、北海道渡島半島にあった館県を含めた6県が合併して弘前県が誕生した。これは困窮していた斗南県を経済状態が比較的よい旧津軽藩領とひっつけることが目的で、ついでに八戸、七戸もいっしょにされたということらしい。もっとも、旧弘前藩士が中央から送られてきた役人に非協力的だったため、まもなく県庁は青森市に移されておるけど。新政府にしてみれば、経済的な発展性が何よりも優先で、古臭い津軽と南部の確執などには、いちいちかまってはいられない、といったところじゃろう。
で、今でも津軽と南部は仲が悪いらしい……
とまあ、こうした長い歴史もあって津軽と南部は地理的、文化的、言語的、気分的にも同じ県内とは思えないほどで、その確執、ライバル心は現代でもなお続いているという。じっさい、バラエティ番組でもこのネタはよくやっているしな。
それぞれに言い分はあるんじゃろうが、まったくの部外者からみると、狡猾な 機敏な津軽と、愚鈍な 実直な南部という印象じゃな。南部はどうも津軽に翻弄されている感じは否めない。
こうなると高校野球で弘前と八戸の学校が対戦したときは、やはり盛り上がるんじゃろうな。そういえば、青森県にはJリーグをめざすクラブも、ヴァンラーレ八戸、ブランデュー弘前、ラインメール青森と3つもある。ダービーマッチは、さぞかし気合が入ることじゃろう。神奈川ダービーとかSKYシリーズとかは甘っちょろい。真のダービーは青森でこそ実現することじゃろう(松本と長野もなかなかのもんじゃろうが)。
ということで津軽と南部の確執についてみてきたが、これも郷土を愛し、誇る気持ちのあらわれといえるかもしれんな。そう考えれば、じつに当たり前の話である。
なお、津軽為信についてはこちらも読んでもらえれば幸いじゃ。