みちのくひとり旅の備忘録、三内丸山遺跡のことを書くのをわすれておった。縄文時代のイメージを大きく変える発見といわれておる。わしの縄文時に関する知識は小学校レベル以下で、縄文式土器と大森貝塚くらいしかよく覚えておらんのじゃが、それでも縄文人のイメージがここを訪れてガラッと変わったぞ。
三内丸山遺跡は今から5500~4000年前の縄文時代の大規模集落跡。すでに江戸時代にはこのあたりに遺跡があることはわかっていて、戦後も調査が続いていたらしいが、本格的に発掘が開始されたのは平成になってから。なんでも県営野球場を建設しようと掘っていたところ、「これはとんでもない遺跡なのでは?」ということになり、急遽、野球場建設を中止し、保存することになったんだとか。
わしの中ではこれまで、「遅れた縄文時代」と「進んだ弥生時代」という漠とした印象があった。縄文人は狩りや漁をしながら獲物を探して転々とし、弥生人は米作りを覚えて定住するようになった、というそんな感じ。じゃが、三内丸山遺跡には最盛期には500人ほどが居住し、コミュニティをつくっていたというのだから驚きじゃ。竪穴住居跡はもちろん、掘立柱建物、高床式倉庫、土坑墓、道路跡などがつぎつぎと見つかっており、その規模はかなりのものだったことがうかがえる。また普段生活をする住居と埋葬施設を区分したり、公民館みたいなものや祭祀場所、貯蔵庫、ゴミ捨て場など、じつに計画的に集落がつくられていたことがよくわかる。
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にあたるこの地域には、クリやクルミなどがとれる豊かな森があった。しかも内海の陸奥湾も近く、定住にはもってこいの場所じゃったらしい。
陸奥というと厳しい冬の印象があるが、当時はかなり温暖な気候だったようじゃ。遺跡からはイモ類やマメ類、一年草のエゴマやヒョウタンなども出土しており、DNA分析の結果から、縄文人がこの地で植物栽培をしていたこともわかってきた。
そのほかにも土器、石器、土偶、土装身具など,多様なものが出土している。驚いたのはヒスイや黒曜石などが掘り出されていることじゃ。ヒスイは糸魚川、黒曜石は北海道の十勝や秋田、山形、コハクは岩手の久慈が産地である。つまり当時の縄文人が広く交易を行っていたということになるわけじゃな。
三内丸山遺跡のシンボルともいえる六本柱建物跡。なんらかの祭祀の施設じゃったらしいが、柱の間隔、幅、深さがちゃんと統一されており、縄文人たちがかなり正確な測量技術をもっていたことがわかる。しかも柱は、周囲と底を焦がして腐食を防止するなど、そのノウハウが施されておる。また、赤漆塗りの木製皿もみつかっている。漆の精製にもかなりの専門技術が必要なはずじゃ。やはり三内円山の縄文人、さすがである。
というわけで、みどころたっぷりの三内丸山遺跡じゃが、見物のときはボランティアガイドさんについていくことをおすすめしたい。なんの予備知識もなく、ふらーっと回っただけでは、だだっ広い場所をうろうろするだけになりかねんからな。
ところで、「ゆとり教育」時代の小学6年生の歴史教科書には、縄文時代は載っていなかったという話を聞いた。なんでも、いきなり弥生時代の稲作からはじまっているというのじゃ。石器、土器の時代を素通りして、いきなり稲作から教えるのは、ちょっといかがなものかとわしも思うぞ。今では、旧石器時代、縄文時代も教えているようじゃが、これはいくら「ゆとり」とはいえ、やっぱりよくないね。
もっというと、歴史の授業で日本の神話を教えないのもおかしいと思う。「古事記」「日本書紀」は習うけど、それはその名前を教えるだけで内容とかはすっとばされるしな。神武天皇も出てこないし、出てくるのは卑弥呼だけ。とつぜん大和朝廷が出てくるのにも違和感がある。「神話の内容は事実ではないから教えない」という意見もあるやに聞くが、これからまずます社会がグローバル化するのに、建国の歴史も知らない日本人がどんどん量産されていくのは、わしは問題だと思うんじゃがな。
まあ、この話は長くなるので、また別の機会に。