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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鳥居三十郎のこと〜戊辰に散った村上藩の若き家老

昨年末に購入して積ん読状態になっていた『窮鼠の一矢』(河合敦著)をようやく読了。幕末の村上藩を率いた若き家老・鳥居三十郎を描いた小説じゃ。

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幕末の越後といえば長岡の河井継之助が有名じゃが、鳥居三十郎という男のことは今回、初めて知った。小藩の運命を背負って決然と立った三十郎。これは小説なので、すべてがすべて史実というわけではないじゃろうが、三十郎もまた、北越のラストサムライと呼ぶのにふさわしい男じゃと思う。

ということで、せっかくなのでこの男のこと、少々調べてまとめておきたい。なお、以後はWikiとかでもふつうに書いてあるような内容じゃろうから、ネタバレというほどではないとは思うが、この時点で、鳥居三十郎のことをまったく知らんけど本書を読んでみたいと思った人は、このページを離脱して、アマゾンですぐにポチってくりゃれ。 

幕末の村上藩、小藩の悲劇

まずはざっくりと幕末の村上藩についてじゃ。村上藩は越後の最北端に位置する5万石の小藩。享保年間に内藤氏が転封されて以後、村上の地を治めてきた。藩祖・内藤信成は一説に松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟とされる。そのため、歴代藩主は老中など幕府の要職をつとめてきた。

そんなわけじゃから、村上藩は徳川譜代としてのプライドが高く、当然のことながら佐幕色が強い。それゆえ、鳥羽伏見で勝利した新政府の鎮撫使が越後にやってきたとき、一旦は前将軍の徳川慶喜に倣って帰順を表明したものの、藩内には「薩長なにするものぞ!」と徹底抗戦を叫ぶ者が多く、藩論は割れていた。

しかも、ここが重要なんじゃが、村上藩の藩境は会津、米沢、庄内という大藩に接している。すでに奥羽諸藩は新政府の軍門に下ることをよしとせず、村上藩にも同盟参加への脅しをかけてきていた。戊辰戦争というと薩長の傲慢がよく非難されるが、じつは会津や庄内もかなり強引で、村上藩のような小藩には残念ながらこれを拒絶するほどの実力はない。かくして藩論は嫌も応もなく同盟参加へと傾き、村上藩は新政府との戦いへと巻き込まれていく。武装中立を表明していた長岡藩が奥羽越列藩同盟に加盟すると、村上藩も同盟軍の一員として、与板や中越方面で臨戦態勢に入っていくのじゃ。

それでも当初、同盟軍は互角以上に戦った。あまりの劣勢に西郷吉之助自らが北越に入ることになった。じゃが、新発田藩が同盟を離反し、新潟港が陥落すると潮目は大きく変わった。鬼神の如き働きで新政府軍を翻弄していた河井継之助が負傷し戦線を離れると長岡は灰燼に帰した。村上藩は苦しい局面を迎えていた。

藩主・内藤信民 まさかの自殺

さらに村上藩を信じられない悲劇が襲う。なんと藩主の内藤信民が、この状況に絶望して、とつぜん自殺してしまったのじゃ(病死という説もある)。

内藤信民は信濃岩村藩から迎えられた養嗣子じゃった。前藩主の内藤信思は、江戸で老中をつとめるなど幕政の中枢を担っていたなかなかの傑物じゃったが、文久の改革で失脚し、隠居を余儀なくされる。じゃが家督を譲った後も、実権を握っていたのは信思であり、信民はお飾りにすぎなかった。

新政府軍が迫る中、国許の家老たちは藩をひとつにまとめるため、江戸に留まっている藩主父子の帰国を求めた。じゃが、父子は江戸留守居を命じられたことを理由に帰国を拒む。帰国して政争に巻き込まれるよりは江戸で様子見をしていようという腹だったのかもしれんな。いざとなれば「あれは国許が勝手にやったことで…」と言い逃れ、お家の安泰を計ることもできるしな。

そんな父子の説得にあたったのが、最年少家老の鳥居三十郎和祚じゃ。小説『窮鼠の一矢』には、三十郎に動かされ、父の反対を押し切って帰国を決めるけなげな信民が描かれていた。じゃが、この帰国が信民の不幸を招くことになる。

小説では、藩主父子の真意は帰順にあったとしている。三十郎もまた藩論を帰順にまとめるよう固く命じられている。じゃが、このとき信民は19歳。養嗣子ということもあり、国難を担う藩主としては、あまりに荷が重すぎた。あるいは生真面目すぎたのかもしれぬ。自分の意に反して藩政が動き、しかも村上藩は次第に追い詰められていく。若き藩主はこのストレスに耐えることができず、失意の中で、自らの命を絶ってしまう。自分が連れ出した藩主を守りきれなかった三十郎の胸中、察するにあまりあるではないか。

f:id:takatoki_hojo:20180204172815j:plain村上城の石垣(Wikipedia)

村上を戦禍から救った鳥居三十郎

そんな中、新政府軍は村上藩に最後通牒をつきつけ、城下へと迫ってくる。いっぽうで庄内藩は武力をチラつかせて同盟維持を迫る。帰順にせよ抗戦にせよ、村上藩にとっては茨の道。このとき、村上藩はすでに詰んでいた。

戦が近いことを悟った恭順派藩士はすでに城下を去っていた。これに対し、残った抗戦派藩士は約200人。ここで三十郎は城に火を放ち、抗戦派藩士を全て引き連れ、庄内藩兵とともに羽越国境へ向かったのじゃ。

この三十郎の行動を、地元では、城下を戦禍から救うためと伝えられている。ただ、じっさいには籠城しても守りきれないことを悟り、庄内藩兵と行動をともにしただけともいわれており、真偽のほどはわからない。じゃが、この三十郎の行動で、村上の街が救われたことは確かじゃ。

城を枕に討ち死にするのは武士の本懐かもしれぬ。じゃが、とばっちりを受ける領民にとってはたまったものではない。それは戦で蹂躙された長岡藩をみても明らかじゃ。三十郎が抗戦派藩士を引き連れていったおかげで、村上城は帰順派の江坂與兵衛の下、無血開城を果たすことになる。

村上を去った三十郎らは、その後、庄内藩兵とともに羽越国境の鼠ヶ関で新政府軍と戦った。圧倒的な物量で攻めてくる新政府軍に対し、三十郎らは鼠喰岩の戦いで奮戦し、一ヶ月以上も新政府軍の庄内侵攻を阻み続け、村上武士の意地を見せている。なお、このとき、新政府軍に帰順した村上藩士は新政府軍の先兵として鼠ヶ関に進軍している。戦のならいとはいえ、同じ村上藩兵同士が戦火を交えるといのは、やはり辛いのう。

なお、鼠ヶ関公民館には、三十郎が着用していたという真っ赤な陣羽織が展示されている。これは三十郎が陣屋として使用していた旅館を離れるときに、世話になった御礼にと残していったものだという。

庄内藩が降伏すると、三十郎ら抗戦派藩士は村上に戻って謹慎する。やがて新政府は戦後処理として反逆の首謀者の首を差し出すよう求めてきたが、このとき三十郎は自ら進んでこの役目を買って出る。責任を一身に引き受けて死んでいこうというのじゃ。

村上藩は斬首という新政府の命令を無視して、三十郎に切腹の場をもうけた。三十郎に、せめて武士として名誉ある最期を、という措置であろう。また、三十郎の切腹の直前に、帰順派の代表格である江坂與兵衛が殺害される事件が起きている。與兵衛もまた抗戦派の恨みをその身に背負って死んでいったといえるじゃろうう。

明治2年6月25日、鳥居三十郎切腹。享年29。

淡雪とともに我が身は消ゆるとも 千代万代に名をぞ残さ武

昨年の秋去りにし君のあと追ふて なかく彼の世に事ふまつらん

五月雨にぬるる我が身は惜しからず 御恩の深き君を思へば

主君・信民を守れなかった三十郎ではあったが、お家は存続し、領民を守ることができた。ギリギリの状態の中、三十郎は家老としての責任を果たしたというわけじゃな。このあたりの三十郎の心情をより噛み締めたいかたは、『窮鼠の一矢』を読んでほしい。

それにしても、小藩の家老はつらいのう……明治150周年は、すなわち戊辰150周年。西郷どんのような西国雄藩や会津藩、新撰組といったメジャーな英傑だけでなく、抗えない時運のなかを懸命に生きた名もなき人物たちが、もっともっと顕彰されることを願っておる。