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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

大鳥圭介〜また負けたよw でもいつもポジティブだった実戦下手の将帥

兵庫県上郡町赤松地区では5月4日、大鳥圭介を顕彰する第9回「圭介まつり」が開催されたそうじゃ。上郡町には大鳥圭介の銅像もあり、小学校の校歌にも登場するほど愛されているらしい。ちょうど先日、伊東潤著『維新と戦った男 大鳥圭介』 (新潮文庫)を読了したところじゃったので、今回は大鳥圭介について書いておこう。

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大鳥圭介ってどんな人?

まずは、ざっくりと大鳥圭介のプロフィールについて。

⚫︎播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)の医者の子に生まれる
⚫︎岡山藩の閑谷学校で漢学、適塾で医学、江川塾で西洋砲術を学ぶ
⚫︎江川塾では兵学教授、その頃、中浜万次郎に英語を学ぶ
⚫︎尼崎藩、徳島藩を経て蕃書調所へ出仕
⚫︎『砲科新編』を翻訳出版。日本で初の合金製活版を作る(大鳥活字)
⚫︎幕臣に取り立てられ、歩兵奉行に進む
⚫︎鳥羽・伏見の戦いの後、小栗忠順、榎本武揚らと徹底抗戦を主張
⚫︎江戸開城と同時に伝習隊を率いて江戸を脱走
⚫︎北関東を転戦後、会津では土方歳三らとともに母成峠で戦う
⚫︎仙台で榎本武揚と合流して蝦夷に渡る
⚫︎箱館政権では陸軍奉行となるも五稜郭で降伏
⚫︎東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄
⚫︎黒田清隆の尽力で放免になり、開拓使御用掛として明治政府に出仕
⚫︎工部大学校長、元老院議官、学習院長、清国公使等を歴任
⚫︎日清戦争前夜、朝鮮での外交交渉にあたる
⚫︎明治44年、食道癌のため没。享年78

なかなかの偉人と言ってよい人物じゃな。

鳳啓介の芸名は大鳥圭介が由来だった

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「オオトリケイスケ」と聞くと、京唄子さんと夫婦漫才をした鳳啓介さんを思い起こす人も少なくないじゃろう。あの、「エーッ、鳳啓助でございます」ぽてちん!」「あら、言いそこ間違いよ!」の人じゃな。ちなみに、その芸名は、大鳥圭介に心酔してつけたものらしい。

五稜郭で敗北が決定的になった時、大鳥は徹底抗戦を主張する仲間に、「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」と降伏を促したという。大鳥は明治政府にも出仕したから悪く言う人もいるが、鳳さんは 、そうした生き方に惹かれたというんじゃよ。鳳さんは戦争を経験しており、「一億玉砕!」を叫ぶ当時の風潮に疑問を感じていたんだそうじゃ。

戦場に散った土方歳三のような生き様はもちろん日本人好みで共感を誘う。さりとて大鳥を卑怯者呼ばわりするのもいかがなものかと思う。「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と、かの吉田松陰先生も言っておられるしな。

「負けてたまるか!」「死んでたまるか!」…このあたりの大鳥の生き方、さまざまな葛藤、そして土方との友情は、伊東潤さんの『維新と戦った男 大鳥圭介』に描かれているので、ご興味のある方には一読をおすすめする。

伝習隊を率いて北関東、会津、箱館へと転戦するも……

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大鳥は西洋兵学に通じていたが、実際の戦闘指揮は拙かったともいわれるし、後年、本人もそれを認めてネタにしていたりする。じっさい、大鳥と野州で戦った板垣退助は、「大鳥が兵を薦めるときは、まず進むべき道普請をしてからやって来るので、此れを撃破するのは容易かった」と語っているし、やはり西洋兵学に精通していた沼間守一は、「大鳥何者ぞ、我が戦機を誤れり」と、愛想をつかして大鳥の下を去ってしまっている。

ただ、時勢に乗って攻めてくる新政府軍をを押しとどめることは、たとえ諸葛孔明であっても無理だったのではないか。たしかに伝習隊はシャスポー銃を装備する当時の最精鋭部隊じゃったが、物量では圧倒されていた。当初は会津藩にもいけずされていたし、強力な味方であった桑名藩雷神隊は藩主・松平定敬のいる柏崎に去ってしまった。そもそも、大鳥得意の散兵戦術を現場指揮できる士官がどれだけいたかというと、これも疑わしい。運にもやや見放されていた。大鳥としては内心、愚痴や弁解のひとつも言いたかったことじゃろう。

それでも大鳥は偉かった。いつもポジティブで腐ったりしない。それは、かつての部下たちの証言でも明らかじゃ。

「実戦は実に下手だ。兵は語るは上手だが兵を用うるは下手だが、大将の器があつた云ふのは大鳥様が配下を派して戦はすと不思議に勝つ。自分が出ると必ず負ける
「しかし負けても平気なものだ」
「また負けたよ、ワッハッハ」と「にこにこして逃げてくる」 

「命のやり取りをしているのにそれでいいのか?」と多少思わんでもないが、やっぱりリーダーはどんなにピンチになっても暗くなってはダメ。連戦連敗して陰気になっているリーダーになんて、誰もついて来ないじゃろう。負けても負けても鷹揚で泰然自若な大鳥の姿は、どこかユーモラスですらある。「負けてたまるか!」「次こそは勝つ!」大鳥の下だったからこそ、兵たちは気持ち切り替え、戦い続けることができたのじゃろう。このあたりは、部下を持つものとしては、大いに学びたいところじゃな。

赦免後は明治新政府に出仕 

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明治2年5月、大鳥は赦免されると、黒田清隆の強力な推しもあり、開拓使御用掛を命じられる。そして大蔵小丞に就任するや、開拓機械の視察と公債発行の交渉のために欧米各国歴訪に出かけることになる。

これはもちろん、大鳥の知識や能力が買われてのことじゃが、大鳥が愛すべき人物でなければ、そうはかんたんにいかなかったじゃろう。なんぜ、最後まで新政府にたてついた人物なんじゃからな。その後、大鳥は明治政府で数々の重職を歴任する。

もちろん、散っていった仲間のことは終生、忘れることはなかったじゃろう。箱館戦争戦死者の7回忌には、函館山に「碧血碑」という供養碑が建てられた。「碧血」とは、「義に殉じて死した忠臣の血は3年経つと碧に変わる」という中国の故事からとられたもので、「碧血碑」の題字は大鳥によるものだともいわれている。どんな思いでこの文字を記したんじゃろうかのう。

「言い訳はしない。これから卑怯者と罵られてもいい。その痛みは多くの部下を死なせた俺への罰だと考えることにする。この国のため、この命を使うのならば、彼らは許してくれそうな気がする」

なお、上郡町は大鳥を顕彰するために、「けいすけじゃ」というアニメを公開している。ちょうど、ここに書いたことがコンパクトにまとまっておるので、よろしければご覧くだされ。


アニメ「けいすけじゃ」第17話~第20話 (上郡町出身の偉人・大鳥圭介)