ユアスタ遠征の前に多賀城跡に立ち寄ってきたぞ。仙台といえばふつうは伊達政宗じゃが、青葉城も瑞鳳殿も何度か行ってるし、今回は斜め上を行こうかと。といっても、多賀城は古の東北地方の政治・軍事の中心である。歴ヲタならば一度は訪れておきたいスポットじゃ。
まずは蝦夷と陸奥国の歴史について
まず仙台までの道中、時間があったので、多賀城創建当時の東北地方についてお勉強。
蝦夷については神武東征や日本武尊、倭の五王の時代から、すでにヤマトによる進出があったとされるが、本格的に乗り出したのは大化改新後のことらしい。中央集権を目指していた朝廷は、大化3年(647)の渟足柵(新潟市?)を皮切りに、磐舟柵(新潟県村上市?)、出羽柵(山形県庄内地方)を設置し、蝦夷征討に乗り出す。
城柵とは蝦夷との境界に築いた砦のことで、蝦夷攻略の最前線。もっとも城柵は軍事面だけではなく、行政の拠点でもあった。朝廷は城柵の周囲に「柵戸」と呼ばれる移民を関東や北陸から送り込んで開墾に従事させた。また、城柵は蝦夷との外交、饗応、交易の拠点としての機能も果たしていたらしい。
斉明天皇4年(658)、朝廷の命により、越の国の阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて大規模な蝦夷征討を開始する。『日本書紀』によれば、このとき秋田(齶田)、津軽の蝦夷は朝廷に抵抗することなく帰順している。また阿倍比羅夫は、渡島(北海道)の蝦夷の求めに応じ、粛慎という謎の民族を石狩川で討ったと記されている。ということで、こちら、安倍比羅夫さん。
その後、白村江の戦い、壬申の乱もあり、蝦夷征討は停滞するが、天武天皇が即位すると律令国家建設に向けて地方行政の整備も加速していく。この時期、朝廷は全国を畿内と七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)に分け、さらに国郡里の行政単位を整備している。中央から国司という役人が派遣され、在地豪族の郡司や里長を監督し、統治にあたっていた。具体的には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)という四等官が任命され、戸籍の作成や税の徴収,兵士の召集、裁判などを取り仕切り、律令体制の地方官としての役目を担ったわけじゃな。
陸奥国の設置は白雉4年(654)で、初代陸奥国司は従四位下・上毛野小足(かみつけののおたり)。はじめは「道奥国」と呼ばれ、現在の宮城県中南部から山形県内陸部、福島県全域、茨城県北西部までを含む辺境の大国じゃった。のちに出羽国が独立するが、それでも陸奥国に属する郡は飛び抜けて多い。おまけに蝦夷との軍事的衝突のリスクもあり、経営がたいへん難しい土地であった。そこで朝廷は、国司とは別に陸奥出羽両国の経営を統括する陸奥按察使(あぜち)を派遣し、辺境の備えとしたのじゃ。ちなみに、初代の按察使は正五位下・上毛野広人(かみつけののひろひと)じゃ。
多賀城碑に刻まれた創建の由緒
そんな陸奥出羽両国の経営拠点になったのが多賀城じゃ。多賀城は仙台市の北東、仙台平野を見渡す丘陵に築城された。七北田川と砂押川が流れ、塩竈の港にも近いといく、まさに交通の要の立地じゃった。
多賀城南門趾近くに建つ「多賀城碑」。外側の覆屋は仙台第4代藩主伊達綱村のときに、水戸光圀の勧めで建築された。那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑の一つに数えられる貴重なものじゃ。この碑は別名「壺碑」と呼ばれ、歌枕としても有名らしい。後世、あの松尾芭蕉が碑と対面した時の感激を『奥の細道』に記したという。
わしには歌心はないが、それでも多賀城跡に立ち、碑文を目にしたときには、やはり東北の歴史浪漫を感じたぞ。
碑面には、平城京や各国境から多賀城までの距離、創建と修造の由緒が刻まれている。
この碑によれば、多賀城は神亀元年(724)、従三位で参議の大野東人(おおの のあずまびと)により創建された。大野東人は陸奥国司にして按察使、鎮守将軍を兼ねた人物じゃ。もちろん、多賀城の造営は蝦夷への軍事的備えとしてのものである。
『続日本紀』によれば和銅2年(709)、陸奥と越後の蝦夷が「良民」に危害を及ぼしているという報せが届く。朝廷はすぐさま巨勢麻呂(こせのまろ)らを派遣して反乱を鎮圧した。じゃが、養老4年(720)、またも蝦夷が反乱をおこし、按察使・上毛野広人が殺害されるという前代未聞の事件が起こった。朝廷は多治比県守(たじひのあがたもり)らを即日、蝦夷に向かわせた。
この反乱、『続日本紀』にはさらりと書いてあるのじゃが、かつてないほど大規模のものだったらしい。朝廷は陸奥国で租税を停止するなど、辺民の動揺を防ぐとともに、令外の官である鎮守将軍を新設、大野東人を任命する。さらに、大崎・牡鹿地方に柵戸を主体とした黒川以北十郡を置き、玉造など五柵の造営も開始した。こうした蝦夷対策が進む中、軍事・行政両面で蝦夷支配を後援するために、国府兼鎮守府として創建されたのが多賀城というわけじゃよ。
いざ、多賀城跡を散策
ということで、多賀城跡を歩いてみた。なお、考古学的なこと、建築土木に関することはわしはさっぱりなので、そこは割愛させてもらうので、あしからず。
多賀城の周囲は築地塀で台形状に囲まれており、外殻の東・南・西には門が開かれていた。で、こちらは外郭南門跡。いってみれば多賀城の正門じゃ。屋根が二重になっている、なかなか立派な門だったらしい。蝦夷に朝廷の威光をみせつける役割もあったのかもしれん。
先日の市長選では、多賀城創建1300年(2024年)に向けて、外郭南門の復元事業を公約に掲げた菊地健次郎氏が当選している。6年後、もう一度、訪れたいものじゃな。
ちなみに、東門と西門というのもあって、両門は政庁の北側を走る尾根に沿った道路でつながっていたそうじゃよ。
政庁と外殻南門を結ぶメインストリート。低い部分には土留めの石垣や排水のための側溝・暗渠が設けられていた。政庁南門の前は傾斜がきつく、階段となっている。
坂上田村麻呂、源頼義・義家・頼朝、北畠顕家はもちろん、蝦夷の領袖たちも、この道を通って政庁に入ったんじゃなと、想像をたくましくしてみる。ある意味、ここが一番のみどころといえるじゃろう。
政庁の南門跡。南辺築地塀のほぼ中央にあり、往時は2階建ての豪華な門だったという。
政庁は多賀城のほぼ中央にあり、造営にあたっては、大規模な土地の造成が行われた。東西103m、南北116mの長方形に築地塀を巡らせ、内部に正殿、脇殿、後殿、楼などが計画的に配置されていた。ここで政務や儀式、従属した蝦夷の饗応などが執り行われた。
なお、発掘調査の結果、政庁の造営には大きく4つの変遷があったことがわかっている。
第1期 大野東人の創建
第2期 天平宝字6年(762)の藤原朝狩による大改修
第3期 宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂の乱による焼き討ちからの復旧
第4期 貞観11年(869)の陸奥国大地震からの復興
こちらの復元模型は第2期のもの。正殿、東西脇門、南門の他に、東・西楼と後殿が新たに建てられ、広場は石敷じゃったそうじゃよ。
けっこう快適? 多賀城での役人生活
多賀城跡からはたくさんの瓦や土器、硯などが発見されているが、注目すべきは漆紙じゃ。漆作業では漆液が乾かないように不要になった紙(文書)を蓋として利用するが、漆が染み込んだおかげで紙が腐らず、当時の行政文書がいまに保存された。これが漆紙じゃ。世帯主と家族を記した課税台帳や暦、物品の納品書や請求書、書物な ど、当時の様子を知る貴重な資料として、さまざまな漆紙が発見されている。また、木札に文字や絵が書かれた木簡も多数出土。荷札やまじないの呪文などが記されている。
多賀城には役人や兵士など、さまざまな人が多数集まっていた。都から派遣された上級役人は20人程。兵士は約500人が常駐し、有事に備えた。その他には、雑用をする人々が700人程いたと推定されている。
人々は文書作成、製鉄や鍛冶、漆作業、木工、給食など さまざまな仕事に従事していた。気になる勤務時間じゃが、なんと夜明けから正午までで、その後は自由時間! 過重労働で働き方改革が叫ばれている現代からは考えられないほど、のんびりしたサラリーマン生活。同じ日本とは思えないぞ。
住環境については、役人は身分に応じた広さの宅地をもらい、掘立式の住宅や倉庫を建てて住んでいた。一方、兵士や雑用をする人々は竪穴住居だった。こちらはJR国府多賀城駅近くにある館前遺跡。9世紀前半頃の国司館あとといわれている。国司はここから600m先の政庁へ、日々出勤していたというわけじゃな。
驚くべきは、多賀城には「国学」と呼ばれる学校もあって、 「国博士」「国医師」という先生が生徒にに授業をし ていたという。役人は文字の正確さや上手さが勤務評価を左右するので、みんな木簡での文字の練習に余念が無かったらしい。
食事は朝夕2回で、役人は給食制じゃった。城内には「厨くりや」という給食センターもあり、料理は身分によってメニューや品数に差をつけていた。牛や馬、鹿の骨も多量に見つかっているが、これらの肉は食用で、皮や骨、角はいろいろな道具に加工、再利用されていた。
健康と安全面も多賀城では万全。病気や不幸、災害に見舞われないよう、祈祷やまじない、占いも盛んで、役所や邸宅、建物を建てるときには地鎮祭まであったというから、至れり尽くせり。なかなかの高待遇じゃな。
多賀城は人と物資の交流拠点でもあった。上級の役人は都から派遣されたし、陸奥国内からも会津郡の役人が出張するなどしていた。兵士などは坂東や陸奥国の各地から調達され、ここに集まってきていた。
食料や日用品、武器などもは各地から送られてきたし、なかには中国産の高級磁器や、陸奥国内の馬や金、漆などもあったらしい。
蝦夷征討の拠点であった多賀城。都から派遣されてきた役人、関東から徴用されてきた人々、朝廷に帰順した蝦夷の俘囚などが集まって街が形成されていたんじゃな。歩いてみると、古の東北の都の生活ぶりが想像できて、なかなかに趣深く、あの松尾芭蕉が感激したというのもよくわかる。
朝廷は兵を送り、柵戸を送り、蝦夷を律令国家に組み込もうと躍起になった。じゃが、当初、そのやり方は割となあなあで、もちろん反乱はちょこちょこ起こったものの、全面的な戦闘状態ではなかったようじゃ。交易も盛んに行われたようじゃし、蝦夷の中には朝廷に進んで帰順し、道嶋嶋足のように中央で出世する者もあった。
とはいえ、やはりよそ者がやってきて、あれこれ上から目線でいわれるのは蝦夷の人々にとっては面白くなかったはず。特に、金が多量に採掘されることがわかってからは、朝廷の支配も苛烈になり、蝦夷の人々の不満も高まっていったであろうことは容易に想像できる。
かくして、宝亀11年(780年)、俘囚(服属蝦夷)の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)による大規模な反乱が起こり、いわゆる「三十八年戦争」がはじまる。これについては、だいぶ長くなってきたので、次回あらためて。
なお、出羽の蝦夷経営の拠点、秋田城に訪れたときの備忘録もあるので、よろしければそちらもご高覧あれ。