奥州の関門・白河は戊辰戦争の激戦地である。今年は「明治150年」、すなはち「戊辰150年」。ということで、仙台遠征の帰路に立ち寄って来たぞ。
まずは白河小峰城の歴史をざっくり
JR白河駅のすぐ北に白河小峰城がある。阿武隈川と谷津田川の間に位置する平山城で、盛岡城、若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えらる、東北地方では珍しい総石垣造りの城じゃ。
小峰城は南北朝時代、結城親朝が築城したことにはじまる。結城氏の祖は結城朝光で、源頼朝公のご落胤との噂もある鎌倉幕府の重鎮じゃ。朝光は白河庄を得て、朝光の孫・祐広がこの地に移り住んで、下総の結城宗家とは別に白河結城氏を名乗った。南朝の忠臣・結城宗広は白河結城氏2代目で親朝は3代目。その後、親朝の長男・顕朝が白河結城氏をつぐと、次男・朝常には小峰城が与えられて、小峰氏を称した。
その後、豊臣秀吉の奥州仕置で白河結城氏が改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、上杉氏らが治めた。江戸時代には丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代と目まぐるしく城主は交代している。寛政の改革で有名な松平定信も白河藩主じゃし、新選組の沖田総司も白河藩士の子じゃ。もっとも総司は江戸の藩屋敷で生まれたとされるから、白河の地への地元意識はあまりなかったじゃろう。
白河小峰城からみた白河市街。ここに建つ御三階櫓は寛永年間の建築で、戊辰戦争によって焼失したものを1991年に復元された。全国でも珍しい木造による復元で、白河口の激戦地となった稲荷山の杉を使ったことから、中の柱には弾傷が残っているらしい。もっとも、わしが到着した時にはすでに閉館してしまっており、確認できなかったことはいかにも残念じゃ。
白河小峰城を改築した丹羽長重は、当初、伊達家を仮想敵として縄張りを設計したという。そのため南方の守備は手薄であった。小峰城が小峰城で南からの敵を迎え撃つことになったのは、歴史の皮肉といってもよいかもしれん。
奥羽越列藩同盟成る!
陸奥国白河は奥州街道沿いの要衝で、もともとは白河藩領であった。じゃが、幕末に老中をつとめた藩主・阿部正外が、兵庫開港を無勅許で進めた咎で棚倉へ減封となってからは、二本松藩の預かり地として藩主不在となっていた。
慶応4年閏4月20日、和戦両方の構えを取る会津藩兵は、山口次郎(斉藤一)率いる新選組や、小池周吾率いる旧幕府脱走兵の純義隊とともに白河に侵攻し、小峰城を占領。翌21日には下野・陸奥の国境にあった「従是北白川領」の道標を打ちこわし、「従是北会津領」の標を建て気勢を揚げた。
この報らせを聞いた新政府東山道軍は宇都宮から兵を進めて白河奪還を図るが、連戦による疲労と弾薬不足、土地勘の無さもあって会津軍に敗れ、撤退を余儀なくされた。
4月26日、白河口総督として会津藩家老・西郷頼母、副総督・横山主税が入城した。さらに奥羽越列藩の盟約が成り、仙台藩、棚倉藩から増援部隊が到着すると同盟軍の兵力は3000となり、大いに士気が上がった。
仙台米沢両藩が主導した奥羽越列藩同盟の基本戦略は次の通り。
- 会津は仙台藩、二本松藩他と協力し、白河以北に薩長軍を侵攻させない
- 庄内方面の薩長軍は米沢藩が排除する
- 北越方面は長岡藩、米沢藩、庄内藩が当たる
- 新潟港は列藩同盟の共同管理とする
- 薩長軍を奥州から排除した後、速やかに南下し関東に侵攻し、江戸を押さえる
- 諸外国を味方につけるべく世論を喚起する
奥羽越列藩同盟は関東に進出し、江戸へと攻め上がるという壮大な計画をもっていた。また輪王寺宮法親王を迎えたことにより、諸外国は一時、「日本に2人のミカドがいる」と、列藩同盟を北方政権として認めはじめた節もある。
白河口は、こうした戦略を遂行するために、絶対に抑えておかねばならない関門であった。白河をおさえ、新潟と平潟の制海権を握れば、新政府軍に伍して戦えた可能性は確かにあった。じゃが、残念ながら榎本艦隊は動かなかった。白河もあっさり陥落した。これは同盟軍にとって大きな誤算であっただろう。
かくして白河口の戦いが始まった
それはともかく、このときの新政府軍は薩摩藩と長州藩、大垣藩、忍藩の部隊で約700。上野の彰義隊は健在で、下野国今市でも大鳥圭介ら旧幕府歩兵との戦闘が続いていたため、新政府軍は増員もままならなかった。じゃが、参謀・伊地知正治は、会津仙台の同盟は未だ成立して日も浅く、指揮系統と機動性に欠けることを見抜いた。そこで大胆にも寡兵であっても白河を包囲殲滅する大胆な作戦に出た。
5月1日、白坂を出発した新政府軍は兵力を3つに分け、中央の本隊は伊地知が率いて同盟軍が布陣する稲荷山の正面、小丸山に進軍した。伊地知は軍旗を何本もならべ立て、主力軍を偽装して間断なく砲撃を仕掛け、同盟軍を牽制した。この間に左翼から野津鎮雄が、右翼から川村純義が指揮する部隊が進軍し、同盟軍の退路を断ちつつ攻め込んだ。
白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』には、5月1日の様子がつぎのように記されている。
五月朔日卯の上刻、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。 (星亮一『奥羽越列藩同盟』中公新書)
このとき、会津藩副総督・横山主税は自軍を督戦するために稲荷山山頂に駆け上がるが、長州藩兵と大垣藩兵の銃撃を受け戦死。これを聞いた頼母は、稲荷山危うしとみて急いで稲荷山の兵を増強する。まんまと伊地知の作戦にはまってしまったわけじゃ。
川村率いる右翼軍は手薄になった雷神山を不意をついて占領する。そして山下に向けて猛烈な猛火をあびせながら、同盟軍の退路を遮断しつつ、兵を城下に乱入させた。
一方、 野津率いる左翼軍も猛攻のすえ立石山を奪取。金勝寺付近で棚倉藩十六ささげ隊を粉砕する。「白河城が危うし!」とみた仙台藩参謀・坂本大炊は決死隊を率いて阿賀野川渡河して救援に向かう途中、銃弾が頭を貫いて即死。また世良修蔵を斬った姉歯武之進討死し、仙台藩兵もまた総崩れとなる。
白河城乗っ取り、大いに朝威を賊地に振るい敵鋒を挫き、策違算なく頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍の至りに堪えず。(『復古記』)
こうして勢いを得た新政府軍は白河城を占領した。この日の戦いで同盟軍の死傷者は約700名、新政府軍の死傷者は20名前後。新政府軍の稀にみる大勝利となった。
最大の激戦地・稲荷山に行ってみた
ということで、白河口の戦いにおける最大の激戦地・稲荷山に行ってみた。新白河駅でタクシーで10分足らず、稲荷山下松波地区の白河街道沿いには、東西両軍の供養塔が道を隔てて建っていて、それぞれに花が手向けてあった。こういう風景はなかなかに珍しい。
右側にあるのが長州藩3名、大垣藩3名の墓で、大正初期までは薩摩藩7名の戦死者も葬られていた。戊辰戦争の後、西南諸藩の兵たちは故郷に帰ると「白河踊り」という盆踊りで亡き戦友たちの慰霊につとめたという。現在も旧長州藩の山口県内には80カ所以上、大垣藩があった岐阜県には5カ所で、この踊りが伝わっているらしい。なお、明治天皇と東宮嘉仁親王も供養のためにこの地を訪れている。
いっぽう左側にはあ会津藩墓所と銷魂碑とが建っている。銷魂碑には横山主税、海老名衛門他304名の名が彫られており、題字は松平容保によるものだ。明治天皇は対面の会津側は、賊軍だかた立ち寄らなかったんじゃろうか。ちょっと気になってしまった。
なぜ、列藩同盟軍は敗れたのか
というわけで稲荷山に登ってみた。山とは名ばかりの小高い丘で、山道を行くこと和すか数分で頂上(?)に到着してしまった。正面には伊地知正治が陣取った小丸山がよく見える。その間およそ1km。ここで激しい砲撃戦が展開されていたんじゃな。。
白河城乗っ取り、大いに朝威を賊地に振るい敵鋒を拙き、策違算なく頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍の至に堪えず
『復古記』は薩長軍の大勝利を伝えているが、それにしても3倍もの兵力を擁していた同盟軍は、なぜ、こうもあっさりと敗れてしまったのだろうか。大砲火器の性能差が大きかったことは間違いない。同盟軍は元込銃が多く、大砲は質量ともに大したことないなかった。中には戦国時代さながらの兵もいたというしな。
まず、白河小峰城が空き城だったということが問題だったと思う。白河防衛は会津と仙台、二本松、棚倉に委ねられたが、自分たちの城でも領地でもなければ、やはり必死さに欠けるじゃろう。
それ以上に大きかったのは、全軍を率いる指揮官の力量の差だろう。新政府軍の指揮をとるのは類い稀なる軍略家と言われた智将・伊地知正治。対する同盟軍を率いる西郷頼母は家格こそ高く名門の出ではあるが、実践経験も軍略の才もなし。そのため、統一的な指揮もなく、各軍はてんでんばらばらに進軍し、連携もほとんどとれなかった。
もし日光口を守備していた山川大蔵に任せていたら……結果論かもしれぬが、白河口の重要性を鑑みれば、頼母の起用は適材とは言えないだろう。会津藩の人材不足と門閥意識が露呈してしまった格好じゃな。
白河口で戦死者の名が刻まれた銅板碑。ここには会津藩士の名がもっとも多く、ついで仙台藩、棚倉藩、二本松藩、福島藩など東軍諸藩927名に加えて、薩摩藩、長州藩、土佐藩、大垣藩など、新政府軍113名の名も刻まれている。
仏様になってしまえば敵も味方もないわけだが、今なお、会津と長州の遺恨がニュースになったりしていることを考えれば、こうした慰霊碑は斬新というか、珍しいというか、これもまた白河ならではじゃな。
西郷頼母の歌碑「かたつむりがうらやましい」
こちらは西郷頼母を顕彰する歌碑。説明書によると建立は2006年のことらしい。
『会津戊辰戦史』の記録によると、新政府軍の猛攻を支えきれなかった頼母は、決死の突撃を敢行しようとしたらしい。これを見た朱雀一番士中隊小隊頭の飯沼時衛(白虎隊で奇跡的に蘇生した貞吉の父)は、「総督は今此に死するのときに非図。宜しく退いて後図を計るべし」と、馬の轡をとって必死で諌めた。じゃが、頼母が聞き入れなかったので、時衛は馬首を北にして鞭打ち、無理やり阿賀野川北方方面へ撤退させたという。その後、岩瀬郡滑川に同盟軍の敗兵が集まって来たが、その数はわずかに三小隊に過ぎなかった。頼母の落胆は大きかっただろう。
うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をもかくしつ
白河口総督を罷免されたあと、頼母は会津若松城に入城し、再び恭順を説く。じゃが、徹底抗戦を叫ぶ城内にはもはや居場所がなく、長子・吉十郎を伴って城を出る。「軽き使者の任を仰せつかり…」と本人は述べているが、容保による追放措置ともいわれる。
敵からは朝敵の烙印をおされ、会津人からは腰抜、臆病者、無能、卑怯者などとの罵られた頼母。白河で敗れた将としての責任は重いが、「身をかくすことのできるかたつむりがうらやましい」というこの歌は、あまりにも切なく、あまりにも悲しいではないか。
そもそも頼母が進言したとおり、京都守護職就任を松平容保が断っておれば、会津はもちろん東北諸藩の悲劇もなかったわけじゃし、多少の恨み節も込められている感じがするんじゃがな。
歴史上、敗れたばかりの東北だが……
その後も会津仙台を主力とする同盟軍は白河奪還を合計7回試みているが、ことごとく失敗している。とくに6月12日の第4次攻撃では、二本松、福島、相馬などの藩兵も加わって4500もの大軍で攻め立てたが、白河城下に迫ることすらできなかった。
わずかに仙台藩士・細谷十太夫が須賀川で奥州の俠客や博徒、農民を糾合して「衝撃隊」(鴉組・からすぐみ)を結成してゲリラ戦を展開、新政府軍を混乱させるものの焼け石に水。同盟軍は西郷頼母を罷免し、内藤介右衛門を総督に任命するが、膠着した戦線を打開することはできなかった。
そうこうしているうちに新政府軍は上野の彰義隊を片付け、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河へとやってくる。さらに、海上から平潟への侵攻も始まり、板垣退助はこれに呼応して棚倉城の攻略に向かう。同盟軍はその隙をついて乾坤一擲、白河に攻め込むが撃退されてしまう。
こうなると唯一の頼みは同盟軍最強の庄内藩による白河遠征だったが、秋田藩と新庄藩が同盟を離脱したことで、その計画は頓挫する。さらに三春藩が裏切ると同盟軍はもはやなすすべも無い。新政府軍は中通りと浜通りを制圧し、会津藩はもちろん、仙台藩をも直接攻撃できる態勢が整った。もはや関東進出など夢のまた夢。会津、二本松はもちろん、盟主仙台までお尻に火がついてしまった。奥羽越列藩同盟は事実上瓦解したといってよいじゃろう。
それにしても東北の歴史は悲しいものがある。奈良平安時代の蝦夷征討、前九年・後三年の役、源頼朝による奥州征伐、豊臣秀吉による奥州仕置、そして戊辰戦争と、白河以北は一方的に攻め込まれてばかり。東北の軍勢が白河を超えて攻め込んでいったのは北畠顕家による遠征があるが、これは南朝に利用されただけのこと。伊達政宗は天下を狙ったというが、時すでに遅く幕藩体制に組み込まれ、その子孫は後年、徳川のために白河の山野に屍を晒すこととなってしまう。地政学的な何かがあるんじゃろうか。
じゃが、その度に立ち上がってくるのもまた東北である。東北の歴史とは、強者との戦いの歴史である。その不屈の精神こそ、我々は学ぶべきなんじゃろう。
ちなみに白河ラーメンは美味じゃった。