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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

戊辰150年、二本松城に行ってきたぞ

本日は、仙台遠征の帰路に二本松を訪れたときの備忘録。戊辰150年、全藩上げて、奥羽越列藩同盟に殉じた二本松藩二本松少年隊。この義藩については、涙なしには語れない。

二本松少年隊

二本松少年隊

仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松

二本松藩を治めた丹羽氏の祖は織田信長重臣丹羽長秀。長秀の子の丹羽長重関ヶ原で西軍に与したことにより一度は改易されたが、その後、常陸国古渡1万石で復活。常陸国江戸崎、棚倉、白河を経て、寛永年間に長重の長男・丹羽光重が二本松10万石に入部する。

以後、二本松は丹羽氏代々が治めることになる。Wiki先生によると丹羽治世下の二本松藩では、節分の時、「鬼は外」と叫ぶと「お丹羽外」に聞こえるとして、「鬼外」「おにそと」と「は」を抜いて唱えていたという。

幕末、江戸が無血開城されると、新政府軍の鉾先は会津と庄内へと向けられる。奥羽諸藩は仙台と米沢を盟主とする奥羽列藩同盟を結成して対抗、二本松藩もこれに参加する。当時の藩主は丹羽長国だったが、長国は病に伏しがちだったため、藩政は家老の丹羽一学が差配した。

仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松

慶応4年(1868)5月1日、新政府軍の攻撃により白河が陥落すると、二本松藩会津藩の求めに応じて援兵を送る。しかし白河奪還はならず、もたもたしているうちに新政府軍は兵力を増強し、棚倉を攻め落とし、北上を開始する。そして、三春藩守山藩が同盟を離脱すると、列藩同盟は窮地に追い込まれてしまう。

会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒

庶民に流行ったジャレ唄。かくして二本松は喉元に匕首を突きつけられることとなる。二本松はこのとき、白河方面に主力を出していたこともあり、兵力は手薄であった。三春からは一緒に恭順しようというお誘いもあったようじゃが、家老・丹羽一学は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と、新政府軍を迎え撃つことを決断する。

馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された

新政府軍の進軍経路

新政府軍の進軍経路

二本松は三春との藩境の糠沢と本宮に陣を敷いて新政府軍を迎え撃つ。じゃが、三春藩の嚮導もあって防衛ラインはあっさりと破られてしまう。頼みの仙台藩も国境に新政府軍が迫ってきたことから、他藩のことに構っておられず、主力を会津・米沢経由で撤退させ、カタチばかりの援軍しか寄越さない。かくして慶応4年7月29日、新政府軍は二本松藩領へとなだれ込んでくる。

庶民に流行ったジャレ唄。

馬鹿だ馬鹿だよ 二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒

三春藩はもとより勤王。裏切り呼ばわりは失礼千万」と、三春人にも言い分はあるじゃろう。了見違いのお坊ちゃんぶりで、全藩玉砕の悲運を招いた二本松の決断は、如何なものかと思わんでもない。この件については部外者で単なる旅人のわしが余計なことは言えないが、ただ三春の裏切りが二本松にとって痛恨事であったことは間違いないじゃろう。戊辰150年の今なお、二本松と三春では縁組もままならないというのは、はたして本当なんじゃろうか。

7月29日早朝、新政府軍は板垣退助率いる土佐、薩摩、彦根佐土原藩兵が本宮方面から攻め込んできた。二本松藩では、軍師小川平助の指揮の下、尼子平の要害に突出して板垣隊の侵入をよく防いだ。じゃが、それもつかの間、尼子平はついに陥落すると、新政府軍は大檀口への砲撃を開始する。なお、このとき、戦死した小川の奮戦に感じ入った薩摩藩兵らは、その武勇にあやかろうとその肝を食したという記録がある。

いっぽう、小浜方面から阿武隈川を渡河して進撃してきた長州、薩摩、備前藩兵の別働隊は、これといった大きな抵抗もなく城下への侵入を果たした。二本松藩は兵力が決定的に不足しており、正午頃には新政府軍は城内に乱入。家老の丹羽一学以下7名は城に火を放ち、次々と自刃。二本松は落城した。

死を賭して信義を守るは武士の本懐  

ということで、二本松城に行ってきた。二本松城は標高345mの白旗が峰に築かれた平山城。別名霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。現在、城跡は県立霞ヶ城公園として整備されている。

二本松城と二本松少年隊

二本松城二本松少年隊の像

はじめは駅から歩いて行こうとしたんじゃが、思いの外遠いうえに丘を越えて行かねばならず、けっきょくタクシーを利用した。これは我ながら正解じゃったよ。

到着すると、二本松少年隊がお出迎えしてくれた。二本松少年隊は箕輪門下のここ「千人溜」に集合し、出陣していったという。縫い物をするお母さんの像が、なんとも哀しげじゃ。

二本松城、箕輪門

二本松城、箕輪門

復元された箕輪門。大城代・内藤四郎兵衛は、ここで迫り来る敵兵に対し、城門を開いて斬り込みを敢行、壮絶な戦死を遂げた。

迫り来る新政府軍を前に、城の自焼を直接命じたのは内藤四郎兵衛だという。猛火に包まれんとする城を背に門を開いて切り込んで孤軍奮闘。その最期は「二本松武士の鏡」と讃えられておる。

内藤四郎兵衛は家臣からの信望も絶大で、四郎兵衛討死を知った家臣がその後殉死している。なお、戊辰戦争で内藤家は一族4人が戦死している。

内藤四郎兵衛戦死の地碑

内藤四郎兵衛戦死の地碑

二の丸を過ぎ、本丸跡に向かって坂道を登っていくと、「二本松藩自尽の碑」がある。城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩重臣らは二本松城に撤退して最後の抵抗を見せた。

この碑は、主戦論者であった家老・丹羽一学、小城代・服部久左衛門、郡司・丹羽新十郎の3名を悼むもの。3人は城の中腹にある土蔵奉行宅で、責任をとって割腹した。

二本松藩自尽の碑

二本松藩自尽の碑

丹羽一学は文政6年(1823年)生まれ。黒船への備えとして江戸に上り、上総国富津で海岸警備に就いた。その後、父親と同様、家老職になると、病弱であった主君の長国をよく補佐した。戊辰戦争では、白石城に赴き、奥羽列藩同盟に二本松藩を加盟させた。

近代化された新政府軍との戦力差は明らかであったが、二本松藩を戦いに導いてしまった一学だが、それを非難する声はあまり聞かない。それが二本松の藩風、お国柄じゃろうか。

丹羽一学の辞世。

風に散る 露の我が身は いとはねど 心にかかる 君が行末

「武士の本懐」とはいえ、藩の悲運を招いた結果を、丹羽一学はどのような思いで受け止めていたんじゃろう。

ちなみに、今米沢に逃れた藩主・丹羽長国は降伏後に隠居、家督は養子の長裕が継いでいる。

丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑

丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑

天守台跡の石垣そばには、小城代・丹羽和左衛門と勘定奉行・安部井又之丞自尽の碑がある。

丹羽和左衛門は本宮の戦いに出陣し、薩長軍の優勢な火器を目の当たりにし、新政府への帰順を建議したらしい。じゃが、その意見は結局、受け入れられず、城を枕に討ち死にする。

その最期は、床几に腰掛け、軍扇を膝の上に広げ、割腹した後、腸を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命したと伝えられている。

さぞかし無念であったじゃろう。安部井又之丞はそれを見届け、和左衛門の後を追うようにして自刃している。

二本松城本丸跡

二本松城本丸跡からの風景

再建なった本丸跡から城下を眺めるとこんな感じ。「西軍はあっちのほうから攻めてきたのか…」などとしばし夢想。

背後には智恵子が「本物の空」と呼んだ安達太良山雄大な景色が……拝めるはずじゃったが、この日は曇りで残念ながら山容は確認できず。この風景を二本松藩士たちも見ておったんじゃろうか。

なお、木村銃太郎二本松少年隊についてはこちらを。

takatokihojo.hatenablog.com

についてはこちらを。