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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

小夜の中山、中先代の乱の合戦場に行ってきたぞ

今さらだが、磐田遠征の往路、小夜の中山に立ち寄ったときのことをアップしておく。小夜の中山は箱根、鈴鹿と並ぶ旧東海道の三大難所の一つといわれた峠で、中先代の乱の合戦場でもある。

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東海道の要衝・小夜の中山

旧東海道の要衝であった小夜の中山。西行法師が69歳で峠越えをしたとき、「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山」と詠んだように、古来から数多くの紀行や和歌にも登場する。

じゃが、今では国道1号線と小夜の中山トンネルが開通したため、旧道を使う人は少なく閑散としていた。平日だったからかも知れんが、この日も訪れる人はわし一人で、なんとなく寂しく、物悲しい雰囲気が漂っておったぞ。

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こちらは歌川広重の「東海道五十三次・日坂宿、佐夜の中山」には、急勾配の峠と行き交う旅人、駕籠かきが描かれている。よくみると、街道のど真ん中に大きな石がある。これは演習七不思議の一つとされる「夜泣き石」じゃ。

なんでも、かつて身重のお石という女性がここで産気づき、難儀しているところを山賊に襲われたという。この時、お石は子どもを産み落とすがやがて絶命。その霊が石に乗り移って、夜な夜な泣き声をあげたので、里人はこの石を「夜泣き石」と名付けたそうじゃ。

なるほど、物悲しいわけじゃな。

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ちなみに産み落とされた子どもを育てたのは近くにある久遠寺の住職らしい。その後、成長した子どもは見事に山賊への仇討ちを果たしたんだとか。

なお、久遠寺の境内には、掛川城主であった山内一豊が上杉征伐から関ヶ原へ向かう徳川家康を接待した茶亭跡もあったぞ。

小夜の中山の「鎧塚」に葬られたのは誰か?

さて、ここからが旅の本題、中先代の乱のお話じゃ。

建武2年(1335)、諏訪頼重に擁立された北条高時は、幕府再興を目指して電光石火の勢いで鎌倉を奪還、足利直義を三河まで追いおとす。急を聞いた足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ることなく、京を進発。中先代の乱を契機に尊氏は建武政権を離脱することになる。尊氏は北条の復権をかなり警戒していたようで、捨て置くことはできなかったのじゃろう。

なお、中先代の乱については、こちらのエントリーを読んでいただくとして…

足利尊氏郡と浜名湖畔の橋本で戦い、敗れた北条時行軍は、小夜の中山に陣を敷き、尊氏軍を迎え撃つ。この地でどんな合戦が展開されたのか、それはよくわからない。「難太平記」にはこうあるのみ。

式部大輔入道殿の事〈三郎頼国と号す〉
中先代合戦の時、海道の大将として京都より下向し、遠江国佐夜の中山にて先代の大将名越といふ者討取き。

小夜の中山で、宮方の海道の大将・今川頼国は「先代の大将名越」を討ち取ったとあるが、この名越というのはいったい誰のことじゃ?

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現在の小夜の中山には、その「名越」が葬られたと伝わる「鎧塚」なるものがある。傍の説明書には、北条時行の一族の「名越太郎邦時」が今川頼国に討たれたと記されている。これは江戸時代に著された『掛川誌稿』に基づく記述じゃろう。

駅路南側林中ニアリ、来由傅ラス、按ニ建武二年八月、北條高時ノ餘類、名越太郎邦時、兵ヲ起シテ京ニ攻上ントシテ、小夜ノ中山ニ於テ今川式部大輔頼国ニ討ル、又享徳五年、今川義忠ノ一族、堀越陸奥守貞延、 小夜ノ山口ニ於テ横地勝田ノ為ニ討レ、共ニ戦死スルモノ数輩アリ、サレトモ鎧塚ハ名越太郎カ死骸ヲ埋ミタル所ナラン、今川頼国、名越邦時ヲ討テ、初テ本州ニ於テ大ニ功ヲ立タレハ、塚ヲ築テ其標トセシモノナルヘシ

『掛川誌稿』にはこうあるが、でも「邦時」はわしの嫡男の名で名越流北条氏ではないぞ。そもそも邦時は鎌倉が陥落したとき、味方の裏切りで殺されておるしな。この記載は誤りで、今川頼国に討たれたのは、おそらく名越高家の長男・高邦じゃろう。

名越高家の遺児・高邦、高範のこと

名越高邦は父・高家とともに元弘の戦で京に上った。ざんねんながら足利高氏の離反により幕府軍は壊滅し、高家も戦死した。じゃが、高邦はうまく逃げ、捲土重来を期して諏訪の時行と合流したんじゃろう。 

ちなみに名越高家は妻を今川から迎えていた。高邦の母は今川国氏の娘で基氏の妹、つまり名越高邦と今川頼国は従兄弟関係になるわけじゃ。そんな縁もあって、頼国は高邦の遺体をここに埋葬したのかもしれぬ。もっとも後年、「鎧塚」を掘ってみあところ、出てきたのは鎧塚某と書かれた石だけだったというから、このあたりの事実関係は怪しいけどな。

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この後、今川頼国は北条時行軍を追って鎌倉へと進軍し、相模川の合戦で戦死している。2人の弟もこの乱で討死し、今川の家督は頼国の子・頼貞がついで丹後、但馬、因幡守護を拝命することになる。じゃが、頼貞は観応の擾乱で足利直義に味方して没落。今川の血は、駿河・遠江守護となった頼国の弟(五男)・範国がつなぎ、後の戦国大名今川氏へと続いていくというわけじゃ。

なお、名越高邦には高範という弟がいたんじゃが、興味深いことに、今川頼国の養子に迎えられておる。今川一門となった高範は那古野に姓をあらため、やがて足利将軍家の奉公衆として仕える。そして、その血脈は豊臣期の色男・名古屋山三郎へとつながっているというんじゃよ。高範がどうした経緯で今川に迎えられたのかはわからんが、母方の縁によるものであろうか。まあ、名越高家はなかなかの美男子だったらしいから、この話は納得じゃな。

とりあえず、まあ、旅の備忘録として。