令和元年の初詣は、材木座の由井若宮へ。平安時代、河内源氏の源頼義公がが前九年の役で東北に赴くにあたり、石清水八幡宮を勧請した。これを源頼朝公が北山へ移したのが現在の鶴岡八幡宮じゃ。元八幡と呼ばれる所以じゃな。なお、このあたりには芥川龍之介の旧宅もあったらしいぞ。
世間一般には、西の平家に対し東の源氏と、平氏の基盤は西日本だと思われがちじゃが、それは庶流の伊勢平氏(いわゆる平家)のこと。もともと平氏の起こりは桓武天皇の曾孫・高望王が平姓を受けて上総国に下向し、その勢力基盤をつくったのがはじまりじゃ。
平高望から5代目の平直方の時、一族で庶流の平忠常が乱を起こす。この時、京都から河内源氏の源頼義公が下向し、反乱の鎮圧に功を挙げたことから、直方は頼義公に娘を嫁がせ、鎌倉の邸宅や所領を頼義へ譲った。その後、頼義公は直方の娘との間に、八幡太郎義家公、賀茂次郎義綱公、新羅三郎義光公の3人の子息に恵まれ、以後、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となっていったのじゃ。
河内源氏と八幡宮の関係は、頼義公の父・源頼信公のときから始まる。頼信公は石清水八幡宮捧げた願文に「末族皆信徳をいただく」と記し、八幡様を氏神として尊崇したという。また頼義公が石清水に参籠した時、霊剣を賜った夢を見て、その後に義家公が生まれた。そこで義家公は7歳の時、石清水で元服し「八幡太郎義家」と号することになる。
頼義公と義家公は、奥州の豪族・安倍氏の討伐を命じられると(前九年の役)、出征にあたり石清水八幡宮に戦勝祈願をしている。そして無事に奥州を平定すると、康平6年(1063)、この地に石清水八幡宮を勧請し、元八幡が建立されたんじゃよ。
永保元年(1081)、義家公は「後三年の役」に出陣する途中にこの地に立ち寄り、元八幡宮に修理を加えている。境内には「源義家公旗立の松」の切り株が残されておるぞ。
現在、元八幡のあたりは住宅街になっており、この地は小さな祠があるだけ。じゃが、 かつて鎌倉の海岸線は一の鳥居のあたりまであったので、この元八幡宮の南側には広大な海が広がっていたんじゃろう。
源氏と鎌倉との関わりは、こうして始まり、以後、義朝公、頼朝公へと続いていくわけじゃ。
GW10連休のど真ん中で、鎌倉にはたくさんの観光客が来ていたが、元八幡には誰もおらんかった。そりゃそうじゃな、この周囲には、著名な史跡、寺社仏閣はないからな。
じゃが、ここが武家の都・鎌倉の原点だと思うと、訪れてみる価値はあると思う。鎌倉ヲタの皆様は、鶴岡八幡宮を訪れる前に、参拝してみてはいかがかのう。